清野賀子:至るところで 心を集めよ 立っていよ

至るところで 心を集めよ 立っていよ

至るところで 心を集めよ 立っていよ

六本木の書店でいくにんかの写真家の写真集を探していたぼくは、ぜんぜんめあての写真集を見つけることができず多少いらだったきぶんで、それでもひとり、とても気になっていた写真家の写真集を見つけることができたきまぐれに、名前も知らない(そもそも写真家をぼくがしらないのだが)日本人の写真家たちの写真集をいくつか手にとって眺めていたのですが、本書には一頁開いた瞬間にはっと心を打たれ、二頁、三頁目を開くころには買って帰ることを決めていました。


それらの写真は、どれもありふれたまちなかの写真なのだけれど、なにか静かで不穏な落ち着きが感じられます。風景写真にはまったく人が写っていないし、木々には緑が見られない。花の写真かと思えば寒椿、そうか、これは冬のまちの写真かと、二度目くらいにようやく思いがいたりました。ぼくは写真はあまり詳しくないのだけれど、清野氏の写真にはけれん味が感じられない良さがあります。それらの写真は、まったくロマンティックでもダイナミックでもないのですが、ぼくは清野氏は「あーっ」っと思いながらシャッターを切っていた気がします。こんな素敵な風景があるんだ、こんな素敵に世界はありえるのだ、そんな思いが、氏の写真からは伝わってくる。


そういってもなんのことやら、とは思いますので、巻末の氏のたった4段落からなる随筆の、真ん中の二段落を引用させていただきます。


「今はすべての焦点は結ばない時代がきている。寸断化されバラバラなものになっていて、それがいっそう強くなっている。誰にとっても、現在は拡散していくものになっている。写真が結ぶ像の中に一体なにがあるのか。写真は記憶、歴史、物語、情緒、といったものだけを提示するメディアではないと思うし、そういう写真は好きではない。

もう「希望」を消費するだけの写真は成立しない。細い通路を見出して行く作業。写真の意味があるとすれば、「通路」みたいなものを作ることができたときだ。「通路」のようなものが開かれ、その先にあるものは見る人がきめる。あるいは、閉じているのではなく、開かれているということ、ある種のすがすがしさのようなものがあるといいなと思う。」


その次の頁の作者の経歴をみて、絶句してしまいました。「清野賀子(1962-2009)」とあるということは、今年お亡くなりになったとしか考えられません。なんということか…しかし、少なくとも、ぼくには何かが開けました。本書に出会えて、本当によかった。