仲正昌樹:Nの肖像 統一教会で過ごした日々の記憶

Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶

Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶

金沢大学で政治学を教える著者が、どのようにして統一教会に入信して脱会したのか、また統一教会での生活とはどのようなものか、半生記的につづったもの。

ぼくは宗教には余り詳しくないので、統一教会がどのような教団か、また宗教に生きると言うことがどのようなことか、そのあたりはあまり上手く考えがまとまりませんでした。しかし、この本は本当に面白かった。なぜならば、本書はぼくが経験した東大駒場キャンパスでの生活の裏側をまざまざと描き出してくれているからで、へーそうだったんだあと何度も思いながら読み通しました。

ぼくが東大に入学したのは、わすれもしない1995年、阪神淡路大震災オウム真理教のテロ事件の直後でした。その頃の駒場キャンパスには、おそらく仲正氏が経験したであろうある種異様な雰囲気が、まだ色濃く残っていたのを思い出します。毎朝登校すると、正門前の広場で拡声器で「民青」なる団体に所属していると思われる男性が、大学に対する罵詈雑言をがなり立てる。よけるように歩いて教室までたどり着くと、教室のすべての机の上に、赤や黄色のビラが。その全てが何らかの政治団体のものなのですが、主張がさっぱりわからない。というか、同時代性をまったく感じられない。確か教室の後ろにはビラ用のゴミ箱まで設置され、速やかにその中へとビラたちは回収されていったように思います。

かと思うと、日の暮れかけたころに構内を歩いていると、前方からにこやかな笑みをたたえた人がよってきて、「宗教に興味はありませんか?」と問いかけてくる。はじめのうちは「ありませんので」と対応していたけれど、それが毎日のようにつづくともう声をかけられても無視するしかない。一度、道に迷って尋ねてきた人まで無視してしまい、すぐに気がついて謝ったこともあります。

駒場寮もひどかったなあ。。。確かちょうどぼくが学部に進学した後に取り壊しになったと思うのだけれど、取り壊す前の2年ほどはずっと駒寮生と大学がもめていて、大学側がインフラを止めたら、発電機を持ち出して籠城したりする人々を、なんとも理解しがたく見つめていました。駒寮と言えば、ぼくらにとっては普通に住める場所ではすでにありませんでした。駒寮に住んでいる人と言えばみなどこか時代を間違えたような、不思議な人たちばかりで、なおかつ寮の使い方も首をかしげざるを得ないものでした。一度足を踏み入れたことがあるのだけれども、一部屋ピンクに塗りたくったり、壁中落書きばかり(「○月×日冷蔵庫事件を忘れるな!」という忘れがたい名文句もありました)で、よく見えれば繊細なディテールの素敵な建物をなんでこんなにひどく使うのか、取り壊されてもしょうがないし、このままでは建物がかわいそうだとすら感じたものです。

そのようなことが、内部の人間から語られる本書は、ぼくにとってはとても興味深く懐かしいものでした。ただ一つ、著者が最後に述べる、新宗教に所属するものも、そうでないものも、根本では「宗教的ななにか」にすがって生きているという点に置いて違いが無いのではないかとの主張は、深く頷かされるとともに、自分の考え方について振り返って考えさせられてしまうものがありました。その意味で、本書はけっこう多くの人に読まれると素敵だなあと思ったのです。