木内一裕:デッドボール

デッドボール (講談社文庫)

デッドボール (講談社文庫)

バイクの事故をきっかけに職を失い、彼女にも振られ、おまけに振られ際に彼女に借りていたお金を耳を揃えてお返しすると口走ってしまった主人公の青年兼子ノボルくんは、数日後に払う当ての無い家賃の支払いまで抱えてしまい、進退窮まった状況にあった。そんなときとんでもなく恐ろしい高校の先輩から呼び出されたノボルくんは、(仮称)佐藤氏を紹介される。(仮称)佐藤氏は資産家のこども誘拐を計画していたのだが、相棒が収監されてしまい代わりを募集中とのこと。基本的にはまっとうな心の持ち主で律儀なノボルくんは断固拒否するのだが、「決してこどもは傷つけず必ず家に帰す」との(仮称)佐藤氏の方針と、またたくみな話術に絡め取られ、いつのまにか誘拐の片棒を担ぐことに。しかし、ここに予想外の犯罪が介入し、大変な事態に巻き込まれてしまう。


初めのうちは、なんだか焦点の定まらないクライムノベルといった感じで、正直そこまでお話にのめり込むことができませんでした。強いて言えば笑いの要素が少なくやたらシリアスな大倉崇裕氏の「白戸くんシリーズ」みたいな感じです。ところが!いざ誘拐がはじまると、ノボルくんの丁寧かつ弱気、そして律儀な性格と、なにか底知れぬ知性と技術(犯罪に関することに限られるのですが)を持った(仮称)佐藤氏のやりとりと行動が、いままでのシリアスな展開をことごとくぶちこわしてゆき、ああ、このためのイントロダクションだったのかと納得させられました。


と思って読み進めていたら、思わぬ事態がノボル君と(仮称)佐藤氏に降りかかります。犯罪を企んでいたのは彼らだけでは無く、もっと悪辣な登場人物の出現です。これだけでもむむむと思わされたのですが、本書の巧みなところは(なんと)その後の物語が、この悪辣な犯罪を企む方とその相方、そしてノボル君という、多視点によって語られてゆくところなのです。と書いてみると、そんなに目新しいことでも無いような気がするのですが、実際のところ事実の開陳のされ方とそれぞれの思惑の行き違いが、見事なまでに物語の緊張感を高らしめ、なおかつえもゆわれぬおかしみまで醸し出してしまいます。


ラストの展開もまた見事で、このころには誘拐事件などすっかり忘れてノボル君の変容っぷりに心動かされ、しかも唯一一人称で語ることの無い(仮称)佐藤氏の振る舞いもまた素敵です。これだけ質が高い物語を書き続ける作家は、正直最近あまり見ないような気がします。