森達也「世界が完全に思考停止する前に」

世界が完全に思考停止する前に

世界が完全に思考停止する前に

イラク戦争の報道に対する違和感と怒りに始まり、北朝鮮へのメディアの呼びかけ方や「タマちゃん」騒動、引きこもりやオウム、視聴率や死刑問題など、メディアのあり方に強烈な批判と疑問、そして虚しさを綴ったエッセイ集。

なによりも「タマちゃんを食べる会」と題されたエッセイが物凄い。



「タマちゃんを食べようと思う。知り合いの知り合いに、北海道でトドを撃っている漁師がいる。彼に来てもらって村田銃で眉間を一発。その後は川岸でバーベキューだ。」



それはなぜか。



「アザラシの命の尊さを声高に叫びながらホタテの命をゴミのように扱ったり、在日外国人に選挙権を与えずにアザラシに住民票を交付することの矛盾に対して、不感症にはなりたくない」



からだ。



「世界には今も、飢餓や殺戮が蔓延している。過剰な善意や一方向だけへのヒューマニズムが、他者の生命や営みへの想像力を停止させ、思考の麻痺へと発展するのなら、今のアメリカと何も変わらない。動物は人一倍好きなほうだ。だからこそ歯を喰いしばってでも食べる。身勝手さを自覚するために。訳のわからない事態をこれ以上起こさないために。だからタマちゃん。お願いだから早く逃げてくれ。頭のおかしな自称映画監督が、バーベキューセットを川岸に持って来るその前に。」



ぼくも「タマちゃん」騒動にはグロテスクとしか言えない感じがしていたのだが、その思いを貫くようにこの文章は心にしみた。この一文に現れているように、森氏は怒りや憤りをただわめき散らすことはせず、その感情を注意深く考察し、自分の心に問いかけ、注意深く、そして力強く言葉を発してゆく。そのベクトルは幅が広く、そして言葉は必然的に鋭さを持つ。だからこそ、僕が今まで言葉にできなかった事柄が、言葉になってゆく。「曖昧さの使い回し」と題されたエッセイでは、「閉塞感」「心の闇」「如何なものか」という言葉の意味について考える。「心の闇」という言葉が報道で使われることについて、



「でも文中でこの心の闇が解明されたことなど、僕の記憶では一度もない。「闇」と口にした瞬間に何かが止まる。自分で目を閉じておきながら、「彼の心の闇は深い」などとこれ見よがしに嘆息されてもなあ。何よりもそもそも、心に闇がない人などいるのだろうか。」



「子供に見せたくない番組」では、首切り殺人事件直後に放映された、その事件と重ね合う箇所があるとも言えるバラエティ番組に対する抗議について、オウムのドキュメンタリー映画に対する抗議を彼は思い出す。



「自作のドキュメンタリー映画「A」や「A2」に対して、異論を唱える人が使う論理のほとんどは、「あなたは地下鉄サリン事件の遺族の気持ちを考えたことがあるのか?」だ。「あなたは遺族なのですか?」と訊ね返せば、「そうではない」との答えが返ってくる。「ならば遺族を主語にするのではなく、あなたの感想をまずは聞きたい」と言っても答えはない」「他者への想像力はもちろん大切だ。被害者遺族がこれまで蔑ろにされてきたことは事実だし、法やシステムが改善されねばならないことは当然だ。でも他者を想像する場合の主語は、あくまでも一人称のはずだ。自分というこの一人称が消えた時、主語のない情感はねじれた述語となって暴走する。」



この本にはいろいろな悩みと口惜しさと怒りが詰められている。それが単なる厭世的な呟きに終わらないのは、そこに実例をもってこれはおかしいのだと、異議申し立てを行う著者の姿が見えてくるからであり、またその異議申し立てが常に「自分が」あたりまえと思うこと、「自分が」正しいと思うことから発せられていることだ。「日本は美しい国だ」などという、どこにも寄る辺のないふらふらとしてなおかつ危険な言葉ではなく、しっかりと、足下や毎日の生活のなかから立ち上ってくる言葉の数々は、力強くもあり説得力もあるのだが、その悲痛なトーンは逆に著者と僕たちの置かれている危機的状況を表しているように思えてならない。とにかく、この本をじっと読むしかない。