J. G. バラード「コカイン・ナイト」

コカイン・ナイト (新潮文庫)

コカイン・ナイト (新潮文庫)

地中海の高級リゾートでクラブの支配人を営む弟が収監されたとの知らせを受け、旅行作家の兄は現地に急行する。そこで、弟が残虐な放火殺人事件の容疑者とされていることを知った兄は、弟が当然否認するだろうと思って面会するも、弟が罪状に全く否認をしていない事実を知り、ますます混乱を深めてゆく。弟の潔白を証明しようと、現地の生活や出来事について調査を進める兄は、そのうちに無数の窃盗や放火、ドラッグ、ポルノムービー、強姦などの横溢に気づき、そしてその発生のメカニズムに知らずと関わってゆくようになる。


新しい文章を探索するのも良いが、たまには決して外れることのない巨匠の作品を読むのも良い。これは1996年の作品で、著者によれば「病理社会の心理学」をテーマにした三部作の最初の作品とのこと。バラードは必要以上に知識が広いので言葉遣いが難しいが、作品そのものはきわめてバラード的な切れ味の良さと展開の鋭さにあふれ、決して退屈することがない。ものがたりの主たる枠組みは、あるなぞめいた高級リゾートの社会の深層に隠れた力学を、訪問者である旅行作家がだんだんと明らかにしてゆくというもの。と書くと、いかにもありがちで凡庸な筋立てに感じられるが、やはりバラードの作品には破格を感じさせるものがある。最終的なテーマは、現代社会の進行は人間をある種の退行に導き、それを打破するために必然的に暴力と犯罪が用いられるようになるというもので、これも凡庸と言えば凡庸なのだが、その描き方が尋常でなく生々しく現実的なのである。


正直、初期の作品に比べると叙情性では明らかに減退し、非現実的なイメージも押さえられてはいるが、同時にきわめて現実的な描写と、緻密な構成力には磨きがかかっている。また、これを磨きがかかっていると感じさせるバラードの現実に対するきわめて鋭い批判的なまなざしが、どう考えてもやはりあり得ないとしか思えない物語の世界に、気が付いたらどっぷりとのめり込ませているのだろう。この寒々とした雰囲気がなかなか心地よい。きわめて細かくページ数の少ない章立てに関しては、相変わらずのバラードで安心できる。場面が次々と展開し、そのたびに登場人物の性格が変容してゆくところが、多少難解で派手さの少ない小説を読み易くもしている。翻訳も素晴らしくてとても良い。この難くもありぎこちなくもあるのだが、一方で通りよく格調高い英文の雰囲気を、ずいぶん努力はされているかとは思うがすっきりと文章化されている。他の翻訳も読んでみたくなる文章でした。