徐京植「ディアスポラ紀行 ー追放された者のまなざしー」

またもやY兄からのお薦め本。自身が在日二世である著者が、マルクスプリーモ・レーヴィ、ジャン・アメリー、フェリックス・ヌスバウムなどの、「故郷」から地理的にも言語的にも追放された人々の足跡をたどりつつ、世界各地に離散するディアスポラと自らを捉える人々の表現活動に思いを巡らせ、ひるがえって自分と自分の住む「くに」のあり方について、訴えと問いを投げかける。

ディアスポラ」とは、著者によれば「さまざまな「離散の民」を言いあらわす」ことばである。ディアスポラ達は、その流れ着いた先の土地では常に「異邦人」であり、また「先祖伝来の土地、言語、文化によって構成された共同体」という堅固な観念に安定しているマジョリティの大半には、その真の姿を見ることや、真の声を聴きとることはできない、と著者は書く。本書が書かれる18年前に、マルクスの墓碑に刻まれていた「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけである。しかし、大切なのはそれを帰ることだ。」ということばの前で「どれほど私は、世界を変えることを渇望していた」ことを思い出しながら、著者は結局絶望のうちに自殺したレーヴィや絶えることなく続く自爆攻撃、アンダーソンの「死と不死をめぐる人間の欲望」が国民国家という想像の産物を生み出したという議論、韓国の独立運動が民族運動へと転移していった事例に思いをめぐらす。また、韓国で長年投獄されていた兄弟の出所を迎えるために光州に向かった著者は、軍事政権下に監獄として使われていた建物を眺め、虐殺の犠牲者たちの墓地が「国家」的に整備されている様を眺めつつ、国家の正史に組み込まれることによってこぼれ落ち、隠蔽され、歪曲されていく記憶に違和感を感じ、かつそのような違和感をいまなお表現している芸術家の痛々しい作品に共感を覚える。その思いは、第二次世界大戦下において迫害されたユダヤ人たちの暴力と殺戮、そして戦後にすらわたる絶望の日々をたどる旅へと著者を導いてゆく。

本書は連載されていたものをまとめただけあって、多少とりとめが無く、そこかしこに著者の個人的な体験と思いが差し挟まれてゆく。しかし、読んでいるうちにその個人的な思いのみが、このような現実を受け止められる手がかりになっていることに気がつかされる。いったい日本にすむ「日本人」のどれだけの人が、出国するたびに再入国許可証の期限を気にしなければならない人たちに心をめぐらせたことがあるだろうか。同時に、自分が何者かであるという意味を、どれだけ必要に迫られて考えたことがあるのだろうか。最近の「国家論」の表紙を眺めるたびに(読んでみたことが無いのだが)、大きな違和感と不条理感を感じざるを得ないのだが、朝鮮語朝鮮人を知らずに育った在日朝鮮人二世、三世が「朝鮮人」であることを引き受けるとき、「それは「民族意識」や「愛国心」が強いからなどということではなく、(中略)、自らの尊厳を主張するための反抗である。その道はたやすいものではない。」という著者のことばには、なにか目を覚まさせるような清冽さがある。あとがきにおいて著者はいう。「ディアスポラにとって「くに」は郷愁の中にあるのではない。「くに」とは、国境に囲まれたある領域のことではない。「血統」や「文化」の連続性という観念につき固められた共同体のことではない。それは、植民地主義レイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところのことだ」、と。このことばは、決してなにかから開放された場所で述べられていることばではなく、恐怖と孤独の檻の中で生きざるを得ない人の思考から発せられたものであるということを考えてみれば、むしろ僕たちの世界には希望ではなく絶望の香りがただよっている気がしてならない。唯一ではないが数少ない救いは、このような祈りのことばを少なくとも世界に投げかけている人がいて、そのことばを活字にする出版社があるということか。