閑話休題:僕はなぜまたもや本を買ってしまうのか。

一昨日は鞄の中に二冊本が入っているのに、渋谷のブックファーストでつい二冊も買ってしまう(なだいなだとブラッドベリ)。昨日は鞄の中に三冊本が入っていたが、たまらず一冊買ってしまった(田中啓文)。今日は今日で、鞄の中には二冊、当然のように二冊買っている(林譲治ロアルド・ダール)。どう考えても最近食費より本代の方が高いぞ。これはいったいどうしたことか。少し考えてみなければ。いったい、なぜ本を買ってしまうのだろう。



1)今持っている本が面白くないかもしれないとの恐怖にかられる。

これはそのとき持っている本の傾向による。例えば新書とSFを持っていた場合、新書は難しくて読みたくなくなる可能性が高い。SFは、当たりはずれが多く楽しめない場合がある。そのため、非常食のようにもう一冊、多くの場合ミステリーを買ってしまう。しかも、本屋に入ったついでにもう一冊買ってしまうことが多い。



2)本を探していて、ほかの本を買ってしまう。

今日は、ずっと林譲治氏の「ウロボロスの波動」を探していたのだが、お茶の水丸善にはおいていなかった。ところが、あたまの片隅に、レジにロアルド・ダールの「キス・キス」の原書がおいてあったことを憶えていて、なにか気になってしまう。今買わなければ無くなってしまうかもしれない。しかも原書は、読もうと思うモチベーションがあるうちに読んでおかないと、一生読まない可能性が高い。そして結局買ってしまう。「ウドボロスの波動」はめでたく有楽町の旭屋書店で発見、購入しました。



3)今買わないと無くなってしまうかもしれない。

別に何かを買おうと思っているわけではないが、時間があれば書店の書棚を眺めるのは趣味のようなもので、ついつい見てしまう。そんなときに、目にとまってしまう本がある。最近ではなだいなだ氏の「民族という名の宗教」だった。一度は買うことなく見過ごしたのだが、後々になってだんだん後悔してくる。岩波の新書だからといって、そんなに再版されることは無いかも知れない。明日には無くなっているかも知れないのだ。もっと恐ろしいことは、自分がその本の存在を忘れてしまうかも知れない。そう思うといてもたってもいられなくなり、結局買ってしまった。



4)今買わなくてもどうせいつか買う。それなら今買ってもおんなじだ。

この理屈は本当に恐ろしい。これはいい本に違いないと確信した本は結局いつか買ってしまう。それならば早い遅いの差があるだけなのだから、今買ってしまっても同じだ。この衝動に打ち勝つことは本当に難しい。これが本以外のものであれば、そんな衝動はただものがほしいというだけなので、待っていればいつか減退し、気にもならなくなると自分に言い聞かせることができるのだが、こと本になると、その理性的な判断が働かない。しかも、上述したように、本はいつか無くなってしまう。実は今日松尾由美氏の作品が文庫になっているのを見つけてしまった。これも、すぐに買ってしまいそうだなあ。。



とまあつらつら書いたが、本代に1500円つかったところで、一日の食費が800円ならまあ良いか、と思ってしまうことも確か。当分はこの生活でも問題ないか。深刻な問題は、人生は本を読むにはあまりにも短いと言うことなのである。時間が足りない。足りないよう。