小川一水:コロロギ岳から木星トロヤへ

コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫JA)

コロロギ岳から木星トロヤへ (ハヤカワ文庫JA)

2014年2月の午前1時、標高3026メートルの剣ヶ峰近くの北アルプスコロロギ岳山頂観測所で太陽コロナの観測にいそしむ若き観測要員岳樺百葉は、噴火とも思われる轟音と衝撃によってたたき起こされる。観測所長の水沢潔と現状確認すると、大事な大事な望遠鏡が設置された観測ドームが大破している。急いで駆けつけた現場で岳樺と水沢が見たものは、ミサイルサイズの紫蘇漬け大根のようなものが望遠鏡に突っ込みぶちこわしているという無残な姿であった。おもわずモップでその巨大大根を殴りつけた岳樺は、巨大大根から日本語のようなものが聞こえて驚愕する。どうやらこの巨大大根は時間を超えて存在し、217年先の木星トロヤでひっかかった尾のために動けなくなっているらしい。呆然としている岳樺と水沢の前で、巨大大根はさらに不可思議なことを要求する。その尾の近くには人間がいるらしく、彼らに「尾を解放しろ」と伝えてほしい、というのだ。


「天冥の標」シリーズでは人類が滅亡の危機を迎え大変なことになっているのですが、帯に寄れば「あまりの展開に居たたまれなくて、ちょっとこのあたりで小休止を、という方向けに、さっくり読める短めの長編を1冊書き下ろして頂きました」とのこと。確かに「さっくり」読めるのですが、そして語り口も「ピアピア動画」を思わせるノリのよく軽快なものなのですが、物語自体はけっこうずっしり重量感を感じさせます。


2231年の木星トロヤは、近傍の小惑星ヴェスタとの争いに負け隷属状態にあり、その争いの決定的な局面で謎の失踪をとげたとされるトロヤの戦艦アキレス号の指揮官の孫にあたる少年リュセージとその友人ワランキは、ヴェスタ人からの理不尽な扱いに鬱屈した日々を送っています。そんのような状況でトロヤ隷属の象徴的モニュメントとして設置されているアキレス号の立ち入り禁止区域に潜り込んだ二人は、船内にデザインされた植物設備が異常繁殖した驚くべき場所にたどり着き、そしてまたそこに閉じ込められてしまいます。必死に脱出を試みる2人の前に、なんだか不気味な植物の根っこみたいな、しかしとても宇宙に存在していたとしか思えない何かが現れます。


実はこれが2014年に現れた巨大大根の根っこであり、この根っこを通じて2014年にメッセージを送れることに気がついた2人は、なんとかして脱出しようとさまざまな手立てを考えます。そのメッセージを通じて巨大大根の要求をかなえることができるらしいこと、またもしその要求をかなえることができなければ大変な事態が生じてしまうことに気がつかされた2014年の二人は、なんとかして未来の2人にメッセージを送るのですが、それがなんとも奇妙でたまならない。だって、過去で行われたことはすでに未来で実現されているはずなのに、実際は未来からの要求に従って過去で何らかのアクションを起こすのです。このあたり、パラドキシカルな展開になるかと思いきや、それが見事に解決されてゆくのが、小川氏の作劇法の尋常なるところだろうと、改めて感じさせられました。


また未来を過去から改変するというアクロバティックな物語の柱の周辺に、幾重にもディテールがちりばめられ、それが伏線としていちいち回収されてゆくところも読んでいて楽しくてたまりません。もともとは巨大大根の尾を解放するはずがいつのまにか2231年の2人の苦境を解決する方向に物語は進み行き、しかもそのなかで極めて趣味的な会話が(読み手には詳しい説明は無く、しかし当然のように共有できる形で)差し挟まれるところなど、「天冥シリーズ」とはまた違った形式ではありますが、「天冥シリーズ」にも通じる確固たる構築を感じさせられました。


帯に曰く「さっくり読める短めの長編」とのことで、それは確かにそうではあるのですが、上述のごとく「未来からの過去を経由した未来改変」というトリッキーな性質ゆえか、物語はある種の多重的解釈を残しながら、おそらくハッピーエンドなのでしょうが、一抹の寂しさとカタルシスを感じさせる結末を迎えます。このあたり、「天冥シリーズ」にも通底する物語世界への自律性と一貫性への確固たる著者の姿勢が感じられ、とても爽やかに楽しむことができた一冊でした。それにしても、天冥の標の最新刊が待ち遠しい。