東郷隆:定吉七番の復活

定吉七番の復活

定吉七番の復活

スイスの山奥で納豆の普及を推進する悪の集団NATTOの幹部との闘いのなか、クレバスに落ちて死んだとされた大阪商工会議所の秘密工作部隊OSKが誇る殺人丁稚定吉七番は、実は冷凍状態のまま生きていた!冷戦もバブルもドットコムバブルも終わった2010年代に復活してしまった彼は、あまりの世情の変わりようにアパシーに落ち込み、河っぺりのホームレスソサエティのなかで野生化したフラミンゴとアリゲーターを従え、環境を脅かす少年少女たちの駆除に精を出すが、そんな彼の元にOSKからの秘密指令が下る。NATTOの残党たちが新潟県朝日村で不穏な動きを開始したらしく、彼は往年の技量を買われその動きを未然に防ぐべく、在来線を乗り継いで駅弁を楽しみながら、一路新潟に向かうのであった。


先日ふと手にとった「熊楠の冒険」は、そのあくまで淡々とした地の文とクマグスの暑苦しい語り口の対比が絶妙で、鮮烈な印象を受けたのですが、その著者である東郷氏の代表作は「定吉七番」シリーズとのことで、ちょっと驚きました。「定吉七番」と言えば往年の8ビット(部分的には16ビットとのこと)ゲーム機PCエンジンの最初期の傑作(PCエンジン持ってなかったので遊んだことはありませんが)というイメージが強く、その作画の安永航一郎氏の印象ばかりが強烈で、あの端正な文章とは即座に結びつきませんでした。などということをしみじみ感じていたら、書店で出くわしたのが本書。なにか亡霊にでも出くわしたかのような不思議な思いにとらわれ思わずてに取りました。


さてさて、内容はというと冒頭に述べた通りなのですが、読みながら不思議な気分にとらわれてしまいました。そもそも、なぜこの時代に定吉七番が復活しなければならなかったのか、しかもなにゆえ定吉七番はここまで痛々しく時代の波から排除されなければならないのか。具体的には、定吉七番が昔の上司がホームレスとなって暮らしている場所に居着いて、必要以上になじんでしまう描写が象徴的であります。

葦原に生息する異境の生物たちとも仲良くなり、フラミンゴには「花江」、アナコンダには「照枝」、時折水辺の鳥を補食しに来るアリゲーターには「うた江」と名前まで与えて餌付けする。
一人と一羽と二匹は、終日湿原から河原を巡った。定吉はこれを「地廻り」と称していた。葦の原と土手下の境にはあちこち死角があり、近所の悪を気取る中学生が屯している。彼ら彼女らはそこで酒盛りをし、不純異性交遊(ああ、なんと懐かしい言葉の響きだろう)を楽しむ。一人の怪人がそこに登場するのだ。首に蛇を巻きつけ、ワニに跨がり、不思議のアリスみたいにフラミンゴを小脇に抱えた男。しかもその怪人は、腰に丸定の紋を描いた前垂れ一枚締めて、あとは裸体だ。それが、
「河原を汚すのは誰や!」
季節外れのナマハゲみたいに叫び散らすのである。これで逃げ出さないのは、岩井志麻子張りの度胸と神経を持つ奴だけだろう。

こんなん読んどると、まさかこれは古き良きショーワ礼賛の物語なのではなどというおそれもすっかり消えて、ただただ著者はこの不条理な状況を描き出したかったのではなどと思わされ、大変気持ちが良く、間違いなく言葉遣いや文化的な側面には寄り添えないのだけれど、懐かしくも新鮮な勢いにのど元をしめられた思いがするのです。

色々とちりばめられた伏線がまったく収束しないのも、これまた美しい。いろいろな意味で、時間を巻き戻してくれるというか、時間の切れ目にまったくの虚構を描き出すという、希有な試みの成功例に思えます。ぜんぜん懐かしくないのに、なにか懐かしいのだ。