東直巳:探偵はひとりぼっち

探偵はひとりぼっち (ハヤカワ文庫 JA (681))

探偵はひとりぼっち (ハヤカワ文庫 JA (681))

いきつけのオカマバー「トムボーイズ・パーティ」につとめる「マサコちゃん」は、なぜかテレビ番組の素人マジックショーに出てみたいという夢が膨らみすぎて、一生懸命マジックを練習し、ついにその夢を叶えることになる。「トムボーイズ」のスタッフと常連は、マサコちゃんの晴れ舞台を視聴しながら応援し、ついにマサコちゃんが「準グランプリ」輝いたところで絶頂的な盛り上がりを見せる。ところがその直後、マサコちゃんは札幌の自宅前の駐車場で見るも無惨な死体となって発見されてしまう。驚愕する<ススキノ>探偵の「俺」は、当初は警察の捜査に期待するのだが、まったくもって捜査は進まず犯人は捕まらない。一時期はしかたないやと思っていたのだけれど、いつしかいてもたってもいられなくなり色々と探り出す「俺」は、「トムボーイズ」の関係者はじめマサコちゃんの関係者が、みな一様に口を閉ざし、事件の解決に進んで協力してくれない状況に気がついてしまう。その背後には、どうやら北海道出身の政治家のスキャンダルがあるらしい。みなの複雑な事情をわかりつつも、「俺」は誰も助けてくれない中で、ひとりマサコちゃんの死の真相を明らかにすべく、奮闘を始める。


このシリーズは「ハードボイルド」と分類されるようなのです。「ハードボイルド」と言えば、ぼくはこれまで散々な表現で言及してきました。男版「ハーレクインロマンス」とか、男の欲望実現装置とか。でも、本書を読んで「ハードボイルド」の定義を考え直さねば、と思わされました。ここには、まるでかっこよくなく、すべてがうまくいかない「俺」の、極めて泥臭い姿が描き出されています。これがハードボイルドならば、「ハードボイルド」の定義とはなんなのか。


それはそうとして、本作ぐらいから「俺」の造形が、なにか深みを帯びてきた気がします。それは、本作では誰も助けてくれず、ヤクザにまでめんどくさく扱われ、警察はもちろん非協力的、なにかすればいろんな人々が襲いかかる。そんななか、一人称の「俺」は、なぜここまでマサコちゃんのためにがんばらないといけないのか、自問自答しながら突撃し、怪しい人々に取り巻かれ、高田は相変わらずオーバードクターとして不安定なポジションを更新しながら不機嫌さを爆発させる。そこに気を遣ってしまう主人公が、とてつもなく優しく美しい。


「ハードボイルド」ということばについて、本作が「ハードボイルド」と形容されるのは、おそらく語りが一人称であること、またそのなにか韜晦したような、非人間的な調子の良さに根拠があるように思います。しかし、本作での「俺」はどこまでも頼りなく、頼りない。その言葉は、振りかざした拳の先には空虚な暗闇しか存在せず、怒りを発動しようにもその対象が存在しない、それでやけっぱちになって色々やってみたらたまたま当たった角があり、それが実はとても凶悪で不気味な存在だったという、どこまでも他律的で本質的には救われない、悲喜劇を描き出しています。ここにおいて、なにかこの物語はマイクル・Z・リューインの探偵シリーズを思い浮かべさせ、なぜぼくがこの物語にこれまで引き込まれるのか、腑に落ちる気分がしました。


「一人称」で語られる物語とは、すべてがフィクション、すなわち虚飾である可能性があります。それを担保しつつ、本作やリューインの物語での語り手は、なにか自覚的に、冷めた視点から自分の立ち位置を同定することで、「フィクション」的な物語の枠組みをぼきぼき脱臼させてゆく。そのような、一人語りの物語しか持ち得ない心細い力強さというか、どうしようもない戸惑いと理不尽さというか、そのようなものがこのような舞台装置の中では存分に発揮されているのでは無いか、その意味において、この「ハードボイルド」と呼ばれる構成は、メタ的な構成力を持つのでは無いか、そんな雰囲気を本作は強く感じさせるのです。ようは、これまで事件に引っ張られていた物語が、一人称の「俺」の物語に変わりつつある、そんな感覚を強く覚えました。