小川一水:天冥の標 V 羊と猿と百掬の銀河

惑星パラスのオロン盆地で農業を営むタックには、老朽化した設備の更新やミールストームなる巨大資本の参入による小規模農家の圧迫、意地の悪い集荷場主にして地区長のマスジドの扱いなど悩むべき事柄が山積していたが、中でも15歳になる娘のザリーカの反抗的な態度と都会に逃げ出したいとの思いには、ほとほと手を焼いていた。確かに逃げ出したくなる環境だと思いつつ日々の仕事に追われるタックは、ある日難破した宇宙船の救助を手伝うことになる。その宇宙船から救出された地球の植物学者アニーは、なぜかタックの農場が気に入り、勉強と称して居座り続ける。その旺盛な好奇心と勤勉さに感心しているタックに、ザリーカの脱走や猛烈な小麦の伝染病、そして更なる試練が襲いかかる。


本編で語られるタックの受難の物語の舞台は2349年、ドロテア・ワットの発見の約50年後で、第4巻よりすこしさかのぼった時代となります。この物語はこれまでとは少し変わった手法で語られ、各章のタイトルは「農夫タック・ヴァンディ、女を助ける」「農夫タック・ヴァンディ、刺客を迎え撃つ」「少女ザリーカ・ヴァンディ、吐き気を催す」「農夫タック・ヴァンディ、見込みを誤る」など、どこか寓話風な設計です。タックの物語自体も、一言でまとめれば出て行った娘を取り返すという、これまでになくシンプルなもの。長大なシリーズの間奏曲といった位置づけでしょうか。


しかしながらこのように感じられるのは本書の半分のみで、本書ではこのタックの物語の章と章の間に「断章」として、ついにダダーのノルルスカインの誕生と成長の物語が語られます。この、第1巻から不思議な存在感を示しつつも、その登場のしかたと同様に謎めいた知的生命体の物語は、その時間的スケールが六億年というとんでもない長さのためか、これまた寓話風というか、どことなくとぼけた語り口で語られます。断章のタイトルもタックの物語と同様にゆるゆるとしていて、「ダダーのノルルスカイン、見込みを誤る」「ダダーのノルルスカイン、旅慣れる」「ダダーのノルルスカイン、大声を上げる」「ダダーのノルルスカイン、逃亡する」といった、これまでの物語のテンションを一気にゆるめにかかるかのようなもの。なんだか気楽な気分になるのですが、語られる物語自体はずいぶんと不穏な勢いを増してゆきます。


ノルルスカインが遂に堂々と物語に登場したためか、これまでのあれやこれやがようやく腑に落ちてきた気がしました。第4巻であらわれた「サーチストリーム」の本質はこういうことだったのかとか、本書でも登場する羊飼いの老人の物語における役割の重要性、さらには冥王斑の元凶となった厄災の源など、いろいろなことが明らかになってきました。しかし、よく考えてみるとまだわからないことが多く残っているというか、むしろよくわからなくなってきたぞ。<救世群>はダダーに敵対する知性体の攻撃的繁殖の結果として生み出されたのであるならば、なぜ<恋人たち>と同盟関係を築けるのだろうか。本書に登場するアニーとノルルスカインは、どのように関係しているのか。またロイズ非分極保険社団やMHDと謎の知性体は接触しているのだろうか。そして、そもそも第1巻での出来事に、このエピソードがどのように影響しているのか。


しかしまあ、読み直してもこれだけ混乱してしまうのですから、数ヶ月から1年おきに新刊を読んでいたのでは、正直物語が思い出せないのも仕方がない気がしてきました。とか考えているうちに、ついに最新刊の「宿怨 part3」が書店に並んでしまったなあ。急いであと2冊、「宿怨 part1」「宿怨 part2」を読まないと、予習が終わらない。