佐野洋子:覚えていない

覚えていない (新潮文庫)

覚えていない (新潮文庫)

「100万回生きたねこ」の著者でもある佐野洋子氏が書き綴ったエッセイ集。お金と性愛の関係から父と母の思い出、自身の結婚と出産と離婚のはなし、大切なる友人のはなしなど、話題は多岐にわたり、しかしながら語り口は突き放したように明るく力強い。




先日某先生のお宅に新年のご挨拶で伺いました。その折り、某先生曰く「僕はいま佐野洋子さんの追悼月間なのだ。とにかくこの年末は、ずっと佐野洋子さんを読んでいた」とのこと。まったく佐野洋子さんを知らなかった僕は、取りあえずその場に置いてあった本書を手にとってぱらぱらっと読んでみたところ、のっけからこんな文章に出くわしました。

私の父は生涯金と無縁の人生を過ごした。金と無縁だと愛の生活に走るのかしらん、七人も子を成した。男は金と無縁と覚悟するやいなや、極端な金蔑主義者になり、七人の子を前に、やたらと精神主義をたたき込みながら飯を食うのである。

もうすっかり嬉しくなってしまい、お借りして読んで見たのですが、いままで読んだことがなかった、すなわちこれから一杯楽しめることが幸せでたまらないくらい、とても素敵な文章で一杯です。


基本的には、2から3ページのエッセイを集めたものです。後書きにあるように、佐野氏が五十代のころに書かれたエッセイを集めたものと言うことで、おそらく二度目の結婚を解消したころに書かれたものでは無いか。内容的には多岐にわたりますが、全体を支配するモチーフとしては幼少期、特に両親に関する思い出、息子を中心とした結婚にまつわるエピソード、そして好きなものに対する直球な思いが挙げられるように思います。


しかし、とにかく語り口が素敵な文章でした。まるで口述筆記のようなオフビートな文体で、読み手の心をいろんな方向に引っ張り揺さぶる彼女の文章は、かといって単に「自由」なだけではなくて、むしろ人間や「生きること」がとても「不自由」であること、その「不自由さ」のなかに、とても素敵な一瞬がちりばめられていること、その「不自由」な人生を不器用に生きることの楽しさを、力強く伝えるものがあるように思えました。例えば「カン違いと成り行き」と題した、自身の結婚歴にまつわる一文。

私の結婚はカン違いの行きつくところであったし、結婚を続行すると、それはカン違いのなれの果てというものになるが、別に結婚に固いイメージなどなかったから、ただ二人で暮らしていたのである。そして結婚は生活習慣を作る場所であったから、私達は私達なりの習慣を作っていった。(中略)
そして二十年の年月をもって私は結婚を解消したのであるが、解消はカン違いを必要としないのである。
つくづくとカン違いは易いが、それを解体するのは難儀であった。カン違いの百倍は馬鹿力を必要とする。解体に馬鹿力を使い果たした私は、もう二度と、カン違いがおこる男との接触はごめんだと思った。(中略)
私は石ころだらけの野っ原に立ち、野っ原の果ての死までが見通せた。生まれて初めての見通しの良さに少し感動していた。
あー本当に見晴らしが良かった。

見晴らしが良かったのもつかの間で、何やら、先が見えなくなった。男が現れたのである。これは計算の内になかった。
こんなはずはない、こんなはずはないと思いながら、ますます先が見えなくなるのである。


引用しているとどこまでも書き写したくなる文章も素敵なのだけれど、このまったくもってひねくれているようでいて、その実とんでもなく素直にこころの揺れ動きを描き出しているのではないかと思われるところが、これまた気持ちよくてたまりません。「大地(はは)」と題された、子供についての文章もとても素晴らしかった。その結びの一文は、こんなのなんですから。もう、泣けて泣けて。

世界中に花が咲いたかと思う程きれいにきれいに笑ったら、私は希望にまみれ、生まれてよかった、全ての子供も生まれてよかったとしみじみ幸せになる。

と言うわけで、また一人、とても素敵な作家を知ることができました。ということは幸せに読むことができる本が増えたと言うことです。生きる喜びが具体的に感じられる瞬間でした。