キーム・トムスン:ぼくを忘れたスパイ 上・下

ぼくを忘れたスパイ〈上〉 (新潮文庫)

ぼくを忘れたスパイ〈上〉 (新潮文庫)

ぼくを忘れたスパイ〈下〉 (新潮文庫)

ぼくを忘れたスパイ〈下〉 (新潮文庫)

マフィアから首の回らぬほど借金を貯め込んだ競馬中毒の青年チャーリーは、ある日父親が徘徊行為の末病院に収容されていることを知る。あわてて駆けつけたチャーリーに、担当医は父が若年性アルツハイマーを発症していることを告げる。自宅への帰り道、財産の委任状へのサインをもとめるチャーリーに、父は署名ではなく不思議な冷蔵庫のようなものの絵を描き始める。がっかりして帰宅する二人の前に、突然ガス爆発や誘拐未遂、謎の殺し屋の登場、そして殺人未遂の犯人の濡れ衣と、思いもよらぬ事態が出来、どうも父親は単なるセールスマンではなかったのでは、と疑問を募らせるチャーリーの前で、父はまるでスパイのような行動と、そしてアルツハイマーに特有の症状を、入れ替わり立ち替わり見せつけはじめる。


昨年の読書でも、うっかり記録し忘れたウィンズロウの「フランキー・マシーンの冬」に並ぶ傑作中の傑作に思えた本作でした。何が素敵と言って、それまでは凡庸なセールスマンだと思われたチャーリーの父ドラモンドが、突如現れる危機的状況の中で見せる絶妙な思考の冴えととても素人とは思えない行動の数々、にも関わらずその状況を乗り越えるといわゆる認知症的な(かなり物語的展開の中で脚色されてはいますが)行為が始まるという、とんでもない落差のある状況に主人公が困惑しつづける、これまでまったく見たことのないある種「独創的」な展開です。


しかも面白かったのは、読んでいてドラモンドの行動が本当にアルツハイマーによるものなのか、それとも偽装したものなのか、読者には一義的な判断しかねるところにあります。どうやらチャーリー君はアルツハイマーであることを疑っていないのですが、CIAから逃亡している最中に往時の切れ味を取り戻したり、それ以外の瞬間は同じ疑問を発し続けるなど、どう考えても都合がよいとしか思えないドラモンドの行動が、本当にアルツハイマーによるものなのか、それともなにか他の理由があって演じているのか、最後まで読者にはわかりかねるこの構成、おそらく著者は意図的に作り出しているのだと思うのだけれど、最後まである種の緊迫感をもたらしてくれること間違いありません。


そんでもって、そもそもの発想もさることながら、ほんとに考えて書いてる?と疑問を持たざるを得ない、全編に強引にちりばめられた伏線がこれまた強引に回収されてゆく無理矢理さもたまらなく心地よい。熊谷千寿氏の軽快かつ諧謔にあふれた見事な訳文に引っ張られながら、度を超した展開をそれこそ一息に読ませてしまう力強さ、間違いなく昨年の読書のうちでもベストに入る一冊(正確には二冊)でした。フランスでセミプロの野球選手だったという、著者の謎めいた経歴もたまりません。面白かった!!