G. K. チェスタトン:四人の申し分なき重罪人

四人の申し分なき重罪人 (ちくま文庫)

四人の申し分なき重罪人 (ちくま文庫)

ある伯爵を取材するためイギリスまでやってきたアメリカ人新聞記者は、その伯爵に呼ばれた席で四人の不思議な男たちと巡り会う。その男たちは、自分たちは殺人や詐欺、窃盗、裏切りの罪を犯したと告白する。本書は、その後その男たちから新聞記者に語られたであろう四つの物語、すなわちエジプトでの不思議な狙撃事件、中庭に奇態な樹木を隠し住まう老人のはなし、大企業のオーナーとして君臨する親父のもとに泥棒として戻ってきた息子、あるヨーロッパの小国で画策された陰謀、によって構成される連作中編集。正直、こんな傑作だとは思いもしませんでした。


まあ、なんといってもそれぞれの物語の構成が素晴らしいのです。何を書いても物語の本筋に触れてしまいそうなところが残念ですが、神の視点で饒舌にしゃべりまくる語り手によって、読者の立ち位置はめまぐるしく揺れ動きます。そしてその大きな作用として、世界は多重に読者の前に立ち現れてくることとなる。それが、物語に大きな奥行きを与えるとともに、逆説的ではあるのですがきわめて物語に現実感を与えているように思います。


それは、初期の久間十義氏や小林恭二氏が好んで用いた手法ともつうづるものがあると思うのですが、その当時「ポストモダン」的手法と言われ、そしてあっというまに消費されてしまった手続きを、こんなにも先んじて、しかもまるで魔術のごとく使いこなしていた作家がいたなんて、とにかくただただ驚いてしまいました。


それでもやっぱり、現代の作家とは言えない年代の作家だけあって文章に多少時代がかったところが感じられもするのですが、ぼくは訳者の西崎氏が訳者後書きに言うように「文体に慣れるまでは少し時間が必要である」というほど、時間をかけることなくすっかり物語の世界に引き込まれました。それは多分に西崎氏の巧みな訳文と筆の運びに負うところが大きいとも、思わされます。確かに、描写は極めてロマン的というか情緒的で、最近の作家でこのような文章を書く人は思い当たりません。また、その息の長い文章も、あんまり電子的なる世界では一般的ではないように思います。でも、それにもまして、なにかとても瑞々しく新しいものを感じてしまうのは、なぜなんだろう。考えてみれば、最近少しづつ読み直している久生十蘭だって、いま読んで古めかしいとは思わないし、ロマン的描写の極北ではと思われる奥泉氏だってとんでもなく新しい訳です。なにか、時代を飛び越えてしまう「若さ」とでも言ったものでもあるのだろうか。


ところでぼくはチェスタトンの良い読者とはとても言えず、ミステリはほとんど読んだことが無く、最近「木曜日だった男」を読んだくらいなのですが、そういえば鳥飼否宇氏はチェスタトンを強烈にオマージュしているようです。あまりそのような側面から見てこなかったので、これからチェスタトンを読み進めつつ、鳥飼氏の「変態的」作品を読み直して見たいと思います。