今野敏:遠い国のアリス

遠い国のアリス (PHP文芸文庫)

遠い国のアリス (PHP文芸文庫)

若干二十歳にして売れっ子漫画家となった主人公菊池有栖は、締め切りに追われる毎日からつかのまの脱出をすべく、行き先を誰にもつげることなく親の友人所有の別荘に赴くのだが、無愛想な隣人や不慣れな環境のせいか、ついたその夜に高熱を出して倒れてしまう。高熱がもたらす意識の混濁から抜け出した彼女は、なぜか十五歳年上の担当編集者が自分を介抱していることにきがつき呆然とする。しかも、なにかがおかしい。担当編集者はいやになれなれしく、無愛想だった隣人はたいそう親切になるなど、どこか「ずれて」しまっているのだ。そしてその「ずれ」は、時間がたつとともに無視できぬほど大きくなってゆく。


あの今野敏氏が、警察小説とアクション小説の雄とも呼ぶべき今野氏が、二十歳の若手女性漫画家を主人公とした、このような可愛らしく美しい、なおかつ妙な叙情性にあふれた作品を書いていたなんて、読みながらとても信じられない思いでいっぱいでした。しかもねー、むつけき男たちの心意気を描くことに関しては日本でも指折りの作家と思われる著者が描く女子の心の内が、これまたなかなかしんみりさせられるくらいに迫真に迫るものがあるのです。まあ、わたしは二十歳の女子にも新進の漫画家にもなったことはないので、正確にはわからないのですが。


それはさておき、タイトルが示すとおり物語は「不思議の国のアリス」的な不条理感の漂う展開を見せます。それは、「鵺」が日常的に存在してしまったり、「鵺」を追い出すには「座敷童」に頼まなかったりしなければならない世界観に現れているのですが、ところが読み進むにつれ世界観のもつれはそれほど物語を支配しないことに気がつかされます。むしろ、繰り広げられる世界はきわめてそれ自体として完結性を持ち、その中で物語は静かに、なおかつダイナミックに展開してゆく。


この、きわめて強固に構築された世界の中で物語が進行するというところは、よく考えてみれば今野敏氏的といえなくもないなあと思いながら読み進めていたのですが、そんな安心感をふっとばしてしまう事態が勃発し、これは山田風太郎ばりのはちゃめちゃな世界へとなだれ込むのかと思いきや、あくまで静かで穏やかな雰囲気を保ち続けるところが、なんとも心地よいのです。今野敏氏の、なにかいままでに見たことのない、いいようのない魅力を感じさせられたとともに、恥ずかしくなってしまうような清冽さを感じさせられました。