加藤隆:歴史の中の「新約聖書」

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)

新約聖書がどのように成立したのか、またそこには何が含まれ、主な福音書はどのようなことがらが描かれているのか、わかりやすく丁寧に説明したもの。


新約聖書の成り立ちと構成を、ここまでわかりやすく、また歴史的なできごとと結びつけて紹介してくれた書籍は、僕の知る限り本書が初めてです。また、神学博士でありながら「新約聖書」というテキストに極めて相対的な立ち位置を取りつつ冷静に分析する著者の姿勢には、深い共感を覚えました。そして、なにより本書は記述のスタイルそれ自体がとても面白い。


本書の魅力は、一義的には著者の微妙におかしみを感じさせる文章の表現にあります。例えば、冒頭の新約聖書の構成についての記述もなんだか楽しい。

新約聖書には二七の文書があります。新約聖書に二七の文書があるということについては、大きな問題はありません。旧約聖書の文書数と合わせて、三・九・二七、と覚えると便利です。

正直、日常的な場面でどのように便利なのか大いに疑問があるところなのですが、この妙におかしみにあふれ親近感を感じさせる文章に、すっかり心を奪われてしまったことも確かで、少なくとも著者は読み手(おそらく日常的には聞き手なのでしょうが)の心を、わかりやすい言葉で引き寄せる力を持っていることがわかるだけでも、本書を読み進めるモチベーションが高まります。そしてその後の記述も、なんだかとても楽しい。


著者の叙述のスタイルとして、同じ事柄をわかりやすい言葉で繰り返し主張する、ということがあるように思えます。例えば、上記に引用した次のページでは、こんな記述が見られます。

新約聖書の中では、互いに違ったさまざまな立場が主張されていると、まずは考えるべきです。互いに否定しあっていると、言ってもよいくらいです。新約聖書は内部において互いに論争的だ、と言っても過言ではありません。

その直後にはこんな記述が。

聖書があって、聖書に基づいてキリスト教が成立しているのではありません。キリスト教の流れの展開があって、聖書が権威ある書物として成立し、権威ある書物とされているのです。


特に引用の最後の部分、同じ事を繰り返しているのでは、と思ってしまいますが、それがそうではないことが、本書を読み進むうちに明らかになります。むしろ、このようないっけんまどろっこしい表現が、本書の極めて重要な立ち位置であることに、いやおうなく気がつかされることになります。それは、本書の中盤以降の大部分を占める、マルコ福音書パウロの残した文書、マタイ福音書、ルカ文書、ヨハネ福音書に関する分析に明らかです。


著者は、これら新約聖書の中で重要な位置を占める文章に対し、それぞれの歴史的な成立の経緯と立ち位置を完結に示した上で、それぞれがある程度異なった立場より書かれていること、それぞれが内包する矛盾点などを、厳しく指摘して行き、そのなかでキリスト教、特に新約聖書というものが、ある一つの立場によって成立するわけではなく、上記のごとく文字通り内部で矛盾し合う、ある種相対的な思考活動であることを、極めて明確に示してゆきます。これは、非常に腑に落ちるものがありました。


本書の魅力はそれだけにとどまりません。キリストが出現するに至った時期のユダヤ教の中での政治的な動き、キリストが活動を始めて十字架事件によって殺害されるまでの経緯、そして70年代に集結したとされる「ユダヤ戦争」とその前後における福音書の差異などを、簡潔な言葉で説明してゆきます。このような聖書の成立と歴史的事柄との整合を丁寧に整合させてゆく記述を聖書の解説書に見たのは、僕の記憶にある限り(そして僕の乏しい読書経験の中で)はじめてのことで、とても楽しめました。だからといって、僕が理解したのは新約聖書のある意味での「形式」であり「内容」ではないのですが、少なくとも新約聖書について少なからぬ興味と関心を抱いたという点で、著者の狙いにすっかり取り込まれてしまったのは事実です。そして、それはとても爽快な経験でありました。