奥泉光:シューマンの指

シューマンの指 (100周年書き下ろし)

シューマンの指 (100周年書き下ろし)

音大を中退し医学部に入り直した主人公は、卒業して数十年後、突然今は亡き高校時代の親友からの手紙を思い起こす。そこには、指を失ったとされる稀代の天才ピアニスト永嶺修人がドイツでピアノを演奏していたとの記述があった。この手紙からはじまる主人公と永嶺の邂逅と友情、そして別れの記憶の中で、主人公は徐々に徐々に、音楽というものと永嶺修人の記憶を、新たに思い出してゆくことになる。


奥泉光氏、待望の新刊です。それも、シューマンにまつわる音楽を主題としたミステリ的側面も感じさせる物語。なんだか久しぶりに、書きたいものを書きたいように書いているのでは、そんな感じにとらわれつつ、久しぶりに読書の快楽に溺れたように思います。


どこだったか、奥泉氏が「もしシューマンがブーマンだったら、3大Bは4大Bだったはずだ」と書いていたような記憶がありますが、とにかく本書にはシューマンに対する奥泉氏の愛があふれています。しかし、愛情表現が本来的には非対称なものであり、実際的には他者との垣根を乗り越える力とはなり得ないのに対し、奥泉氏の筆致は巧妙に、読者を音楽の世界に引き込み、そしてシューマン、または音楽そのものを、ことばのつらなりから鳴り響かせることによって、その深い愛情をなにか読者に感じさせてしまう、そんな気がしました。


それは、本書の一つの主題が「音楽」とはいったいなんなのか、または書かれた「譜面」を「演奏」することと、「音楽」の間にはどのような関係が切り結ぶのか、その点にあるような気もします。それは、とりもなおさず書かれた「文章」と「物語」がどのように切り結ぶのか、つまり作家と読み手の間に存在する「物語」というもののあり方と、直接的に関係しているからかも知れません。


「鳥類学者のファンタジア」の終章において、まるでそこに音楽が流れているかのような文章を炸裂させた奥泉氏の筆致は、本作でも遺憾なく発揮されるとともに、物語全体にちりばめられ、物語を音楽的に構成することを試みたかのようにも思えます。このあたりでも、音楽と文学との相似形が気になるんだよなあ。そういえば、最後まで読んでから冒頭の手紙へと、まるでコーダするような流れも、またロマン派的というか、さすが「ノヴァーリスの引用」の作者なのであります。


全体的な雰囲気は、ある種青春時代の痛々しい人間関係の描写が鮮烈に感じられるという点で「その言葉を」を思わせるものがあり、一方で奇矯な行動をとりつづけるかのように見える天才を描いている点で「ノヴァーリスの引用」を感じさせもします。しかし、やはり物語の構造を幾重にも包み込み、「現実」の枠組みを揺さぶりつづけ、物語が集結してもその揺らぎが響きつづけるという点において、本書は僕にとっては「葦と百合」にもっとも近く、そしてもっとも僕の愛する物語を示してくれているように思えました。