東大作:我々はなぜ戦争をしたのか

我々はなぜ戦争をしたのか (平凡社ライブラリー)

我々はなぜ戦争をしたのか (平凡社ライブラリー)

ベトナム戦争時にアメリカの国防長官であったロバート・マクナマラが、1997年に当時のベトナム側の外交・軍事的指導者とハノイで行った、戦争を回避するための「失われた機会」についてのディスカッションをまとめたもの。


非常に衝撃的でした。マクマナラはあくまで「失われた機会」が存在したのでは、そしてそれはどのタイミングだったのか、当時の両国の責任者や実務担当者、そして軍人たちを通じて明らかにしようと画策するのですが、徐々に明らかになってきたことは、双方の情報認識のあまりの違いであり、また意志決定に関わる前提の非対称性とも言うべき事態なのです。


そもそもベトナム戦争は間違いであったと自叙伝で語ったマクマナラが、自ら提案したこの会議で企図したことは、ベトナム戦争戦争を回避するタイミングがどこかにあったのでは、またなぜ双方はそのタイミングを逸してしまったのかと言うことであり、同時にベトナム戦争の責任は両国にあるのでは、と言うことを暗に公にすることだったと著者はさりげなく分析します。


しかし、ハノイで4日間にわたり開催された対話によって明らかになったことは、あまりに大きな双方の情報ギャップであり、またあまりに大きな状況判断基準の違いというものでした。例えば、アメリカ側は当時大統領補佐官であったマクジョージ・バンディが戦況を見極めるためベトナムに飛んだ際、ブレイク空軍基地に北ベトナムの攻撃が行われ多数の死傷者が発生したこと、そしてこの攻撃が、バンディをして戦争の継続と拡大を決意させたとして、なぜこの時期に非常に挑発的な攻撃を行ったのか、ベトナム側に問いただします。この問いに対し、当時北ベトナム中部軍司令官だったダン・ブー・ヒエップは、以下のように返答します。

あれはたった30人の部隊による攻撃で、今だから申し上げますが、それほどたいした攻撃ではなかったのです。もう少し具体的に言えば、あれはブレイクに駐屯していたアメリカの傀儡軍、つまり南ベトナム政府軍の第二軍団司令部を叩くのが目的で、一緒にいたアメリカ兵が負傷したのは仕方がないと思います。
どうやらあなた方は、アメリカの調査団がいる時を狙って、ハノイの総司令部が攻撃の命令を出したと思いこんでいるようですが、事実はそうではありません。

そしてアメリカ側はこの返答に驚愕するのです。


このエピソードが指し示すことは、ゲリラ的な戦闘を強いられていた北ベトナム軍にとって個々の戦闘は司令部が直接指示を出すようなものでもなく、その余裕も無かったという一方で、アメリカ軍の規律からすればそれはまったくの逸脱行為であり、アメリカ政府首脳には当然北ベトナム軍の強い意志が働いた示威行為であったと認識されていたという、純然たる情報ギャップがベトナム戦争の激化と泥沼化を生じさせたということに他なりません。


それ以外にも、ある種悲劇的な双方のすれ違いが明らかになります。それは、なぜ北ベトナム軍が秘密裏に行われていた和平交渉を受諾しなかったのかというアメリカ側の疑問に対するベトナム側のやりとりに象徴的に現れます。アメリカは北部を爆撃する一方で、秘密裏に和平交渉を行います。ここで、マクマナラは1965年から68年のアメリカの攻勢のためにベトナム側に実に年間100万人もの死者が出ていたこと、そしてその間行われていた和平交渉に北ベトナム側が一貫して否定的であったことに言及し、続いて以下のように問いかけます。

そこで質問です。一体なぜあなた方は、このような膨大な人命の損失に心動かされなかったのですか。目の前で国民が死んでいく中、犠牲者を少しでも少なくするために交渉を始めようという気にはならなかったのですか。どうして交渉のテーブルについてアメリカの提案が自分たちにとって有利かどうかを見極める努力さえしなかったのですか。


この質問に、会談中極めて冷静に対応していたベトナム側は、さすがに冷静さを失ってしまいます。ベトナム側としては、北部で空爆が行われている状況で和平交渉を行うことなど、まったく選択肢にあるわけがありません。銃を突きつけられただけでなく発砲して人々を殺している相手に和平交渉を行おうと言われるという状況は、北ベトナム側にとっては理不尽どころか理解の範疇を超えた事態であり、当然検討の余地すらありません。しかし、この理屈はまったくアメリカ側にとっては理解不能な事柄でした。


ここで重要なことは、マクマナラはじめこの会議に参加したアメリカ側の人々は、決してベトナムと論戦をするために会議を企画したわけではなく、ベトナム戦争という過ちを認めた上で、どこに戦争を回避するきっかけがあったのか、幾分の政治的デモンストレーションの意図はあったにせよ、真摯に考え、そしてベトナム側との相互理解を望人々であったと言うことです。それらの人々であっても、ベトナム側としては理解に苦しむどころか、まったく理解不能な発言が飛び足してしまいます。


著者やこの会議の関係者が述べるように、これには相互のあまりに大きな情報のギャップが一つの原因でした。アメリカ側の北ベトナムの戦況理解に対する判断は、北ベトナム側のそれとは異なった前提、つまり自国のそれによってもたらされたもので、的外れであったことが次々と明らかになります。一方で、北ベトナム側もそのようなすれ違いを回避する外向的チャンネルを持たなかったことが、その状況を悪化させていったことを認識してゆきます。


本書は、ベトナム戦争の長期化と泥沼化の責任が那辺にあるのか、突き止める試みというわけではありません。むしろこのような対話を通じて、戦争に至る状況がなぜ作り出されてしまったのか、そしてそのような戦争を闘いあった両者がどのようにして対話の糸口を見つけることができたのか、その二点を描き出すことに主題が据えられています。これは、非常に衝撃的なことであり、また一方で示唆に富むものでした。


例えば中国と日本で歴史認識に対する合同の調査が行われていますが、おそらくここまで双方が踏み込んだものになっているのかというと、その可能性は極めて低いものだろうと思われます。また韓国併合の議論に見られるように、韓国と日本の植民地支配に関する認識は、今に至るまでまったく相互理解の接点が見いだせない状況にあります。これは、ベトナム戦争とは戦争の性質が違うということもありますが、やはりなにか重要な努力が足りないのではと、少なくとも日本のある種の「政治家」や「知識人」の発言を見るに、強く思わざるを得ません。しかも、これらの戦争の実体験に基づく記憶は、もはや世代の波の中で失われようとしつつあります。


NHKのディレクターからカナダ留学を経て国連アフガンミッションの責任者を務める著者からの、強い危機感にあふれた本書は、一方でこのような相互理解のあり方もあるという、希望も感じさせられるものでした。なにより、この対話が一回で終わることなく、現在にいたるまで継続されているということが、本書の大きな救いとなっています。これがどのように東アジア地域の相互理解に応用できるのか、あまりはっきりとした青図を見いだすことは困難ではありますが、それでも相互理解の可能性は無いわけではないと思わせてくれるだけでも、充分に期待を抱かせてくれる一冊ではありました。