ヘニング・マンケル:五番目の女 上・下

五番目の女 上 (創元推理文庫)

五番目の女 上 (創元推理文庫)

五番目の女 下 (創元推理文庫)

五番目の女 下 (創元推理文庫)

スウェーデンの南端のまちイースタで、屋外に誘い出された男が自ら掘った塹壕に落下させられ、そこに設置された鋭い槍上の竹で串刺しにされるという凄惨な事件が発生、頭を抱えながら捜査にとりかかる刑事ヴァーランダーのもとに、こんどは花屋に押し込みがあったとのこと。駆けつけてみると、確かに押し込みの状況ではあるが、何も盗まれておらず犯罪の形跡はないという。ただ、床に血痕が残されている以外は。。。これらのことが、やがて一連の殺人事件へと発展し、イースタ警察署では退職希望者まで発生、ヴァーランダーは胃痛に悩まされる。


僕にとってスウェーデンとは、もはやヘニング・マンケルが描き出す世界となってしまったくらい、マンケルの世界には高い没入度を感じます。リューインを思わせる主人公の陰鬱としながらも最終的には救済がもたらされるという造形、正直そんなたいしたことではないと思われることに、警察署全てのひとびとが衝撃を受けるという、ある種ののんびりとした地域性、そしてスウェーデンという国の地理的条件が大いに反映していると思われる、物語全体で展開される陰鬱とした風景など、一つ一つを取ってみればさほど面白いとは思われないのですが、ここから作り出される全体には、やはりなにか独特であり、他の作家では味わうことのできない臨場感のようなものを感じさせられます。


物語の方は、幾分冒険物語的であったこれまでのエピソードから正統的な犯罪小説への回帰が感じられ、淡々と事件が積み重ねられてゆくというオーソドックスな構成と言えます。それも、初めの殺人はともかくその後の事件としては花屋への押し込み強盗(しかもなにも盗まれない)、深夜の病院での不審者の発見、数十年前の女性の失踪事件など、なんとも華やかさに欠けるものが続いてゆく。


結局のところ、これらの小さなエピソードが一つの大きな犯罪を構成してゆくのですが、本作の大きな特徴として、物語を統べる犯罪とは別に、いくつか見逃せないエピソードが差し挟まれているところかと思います。一つはヴァーランダーの父の死とそれが掘り起こすヴァーランダーのプライヴェートな人間関係です。父の死に衝撃を受ける息子というのは、これはありきたりというか、当たり前かと思うのですが、そこで展開される人間関係は、なるほどこれがスウェーデン的なのかと思わせられるものがあります。元妻にある程度の距離を持って慰められることで、もう元の関係には戻れないとヴァーランダーが確信したり、元妻との間にできた娘にそれとなく慰められたり、リガにすむ恋人に連絡することで心の平安を取り戻したり、いい年したおっさんが恋愛にこころ動かされるという、凄惨な殺人事件と対照的な姿が描かれる本書は、一方で同じスウェーデンのミステリ作家レックバリの描き出す(「説教師」や「氷姫」などの)シリーズでの登場人物たちが繰り広げるどろどろとした人間関係と併せて読んだ場合、スウェーデンという国のある種の閉塞感を、それとなく感じさせられるものがあります。


またもう一つなるほどなあと感じさせられたことに、なかなか犯人を検挙できない警察にいらだった住人たちが「自警団」を組織すること、そしてその事実に愕然としたイースタ警察署のひとびとが、毅然とした態度で排除に乗り出すエピソードがあります。「自警団」というと、町内会の防犯組織のようなイメージがあり、なんでそんなに驚き、そして怒りを覚えるのか、僕には理解ができないものがありました。しかし読み進むうちになんとなくわかってきた。ここでの「自警団」とは、ネオナチのグループのような極めて排外的、そして暴力的なものであり、実際に本書ではなんの罪もない視覚障害者が、挙動が不審であったと言うだけで凄惨なリンチに合う場面が描かれます。福祉国家スウェーデンが、戦後もある程度の期間極めて差別的な政策を推し進めていたことは有名な事実だと思うのですが、現代の作家のこのような記述を見せつけられると、いつ内向きに政治的力学が触れるのか、実は極めて微妙な傾向が存在すると言うことが、極めて説得力を持って感じさせられました。


それで結局面白かったのかと言われれば、当然ながらとても面白かった。相変わらずの鬱々としたヴァーランダーの姿、そしてそれでいて鋭い切れを見せる頭脳、仲間たちの信頼と友情、決して大活劇にならない地味な展開、どれをとってもヘニング・マンケルらしい、落ち着きを感じさせる素敵な物語で、またもや時間を忘れて読み通してしまいました。