ジョー・ウォルトン:英雄たちの朝 ファージング1

英雄たちの朝 (ファージングI) (創元推理文庫)

英雄たちの朝 (ファージングI) (創元推理文庫)

第二世界大戦末期、ドイツと単独講和を結んだイギリスを舞台とした歴史改変探偵小説。このドイツとの講話を主導した「ファージング・セット」と呼ばれる政治派閥の集まりで、下院議員の刺殺死体が発見される。その死体には、ユダヤ人が犯行に関わることを示唆する証拠が残されていた。そこに居合わせてしまった「ファージング・セット」の一員を父に持つ女性は、ユダヤ人の夫を持つことにより、夫とともに重要な容疑者と目されてしまうことになる。


物語は、スコットランドヤードのカーマイケル警部補と、ユダヤ人の夫カーンを持つ若き女性ルーシーの2人が、交互に一人称で語り合うことで展開します。読み始めはルーシーの一人称であり。なんとも居心地の悪い貴族社会の情景が描き出され、ルーシーと同じくらい食傷してしまうのですが、カーマイケル警部補の語りが始まると、ぐっと物語の硬度が上がる気がして楽しめます。


しかし、ほんとうにひねくれた物語です。そもそも、ドイツとイギリスが単独講和を結び、ドイツはヨーロッパを占領しつつロシアと交戦中という、極めて不条理な設定であることに始まり、イギリスではユダヤ人は市民権は守られているものの迫害され、ヨーロッパではナチスによる人種迫害の嵐が吹き荒れています。この荒唐無稽と思われる世界の中で、やけに生々しく、現実味あふれる舞台が展開してゆきます。


物語は極めてシンプルで、基本的には誰が、なぜ殺したかのをカーマイケルが明らかにしてゆく、そのまっすぐな一本道の探偵小説といえます。しかし、そこにまつわるエピソードはどれもこれもが不条理で、なにか不穏な空気が漂いつづけます。それは、ルーシーの夫は高名な銀行家であるにもかかわらずユダヤ人として居合わせた人々から犯人扱いされたり、主人公はそのある種の性癖によって真実を追い求めることを強烈に妨害されたりしてゆきます。


しかし、本書は虚構の歴史と真実を織り交ぜることにより、なにかとてつもない構図を描き出してゆくように思います。本作では一つの政治的陰謀が描き出されてゆきますが、作者が描き出そうとしているのは間違いなくそれを超えたなにか、いわく言い、権力の恐ろしさのような、なにか得体の知れないものなのでしょう。それは、今後次々と刊行される、本シリーズの第2作、第3作によって明らかにされてゆくのでしょう。でも、この作劇法にはまいったなあ。難しいことはなしに、ぐいぐいと物語に引き込まれてしまいました。