笠井潔:青銅の悲劇

青銅の悲劇 瀕死の王 (講談社ノベルス)

青銅の悲劇 瀕死の王 (講談社ノベルス)

昭和天皇が亡くなる直前を舞台として、ふとした理由で東京の郊外にある邸宅に招かれた小説家は、その邸宅に住まう家族の異様な確執を目の当たりにすることになる。そんななか、一家の極めて重要な催しである神祇の後に行われた会食の席で、当主が突然卒倒する。その状況から毒殺未遂が疑われる中、親戚の子どもの家庭教師として雇われたナディア・モガールと主人公の小説家は、この一家に隠された謎と毒殺未遂事件の犯人を、まるでゲームのように明らかにしようと試みる。

本書のもっとも大きな特徴は、おそらく昭和天皇が亡くなる前夜という、昭和の終わりの瞬間をどのように切り取り、総括するか、という作者の思いにあるように感じられます。昭和天皇とその戦後の生き方が、極めて伝統的な生活を保持する一家、特にその当主に重ねられる中で、昭和という時代がなにをもたらし、なにをいまだ残しているのか、お得意の推理小説という体裁で迫ってみたいと思って、本シリーズは構想されたのでは、と感じました。



そのためか、物語自体は極めて古典的な「本格推理」小説的展開を見せます。もつれきった人間関係、秘儀として口承で受け告げられる神事、連続殺人に見立てを思わせる様々なガジェット。。。正直言って、このような作品が現代に創出されること自体に大きな違和感というか、不思議な思いがしてならなかったのですが、読み通してみるとある程度その心がわかったように思いました。


おそらく、著者はあえてそのような違和感を作り出したかったのではないのかなあ。これまではフランスを舞台に、矢吹駆という「現象学」探偵をトリックスターとして用いることによって、学生運動やそのころの政治的な流れをある程度距離を持ちながら批判的に描こうとしていたように思います。しかし、平成も22年が経過しようとする今、昭和は遠い過去になりつつあります。そのためには、今一度昭和64年、あの異様な年末に時計の針を戻し、そしてその日本を舞台にすることで、作者なりの総括を行いたかったのでは、と感じます。


そのため、物語的にも徹底的に昭和的なガジェットが横溢することとなります。いつも感じるのだけれど、なぜこの種の物語の犯人や登場人物たちは、ここまで手の込んだことをしなければならないのか、不思議でたまりません。今回も、見立て殺人を思わせる様々な痕跡や、とっくりに毒を入れる手順など、もっとシンプルにしようと思えば簡単にできるのでは、と思わせる事柄が満載です。また、それらの昭和的ガジェットについて、主人公やナディア・モガール、そして親戚の高校生が延々と推理合戦を繰り広げられる展開など、「虚無への供物」を彷彿とさせてなりません。でも、これが作者なりの昭和の総括であり、昭和を現代に引き戻す試みだったのかなあと、読み終わってからは思わさせられたのです。

でも一番衝撃だったのは、帯には「矢吹駆シリーズ 日本篇!!」と銘打たれながら、矢吹駆が明示的には一切登場しないところにあります。それなりに矢吹駆の「影」ともいおうものは登場するのですが、これは「矢吹駆」シリーズというより、「矢吹駆」シリーズの「ナディア篇」と呼んだ方が正確ではないかなあ。まあ、面白かったから良いのですが。