イルデフォンソ・ファルコネス:海のカテドラル 上・下

海のカテドラル 上 (RHブックス・プラス)

海のカテドラル 上 (RHブックス・プラス)

海のカテドラル 下 (RHブックス・プラス)

海のカテドラル 下 (RHブックス・プラス)

14世紀初頭、横暴な領主によって妻を陵辱され、そして息子を殺されそうになった農奴バルナットは、息子を連れバルセロナに逃亡し、陶器職人の工房で隠匿生活をはじめる。当時バルセロナではさまざまな建物が建造されていたが、「海の聖母教会」は「バスターシュ」と呼ばれる港湾労働者組合の無償の労働力提供によって、その石材が搬入されていた。その海の男たちに憧れを抱きながら育ったバルナットの息子アルナウと、その友人のジュアンは、バルセロナの経済的困窮や中世的諸制度、そして度重なる悪意によって導かれ、アルナウはバスターシュへ、ジュアンは司祭へと、それぞれの路を歩み始める。しかし、二人のまわりには常に悪意と陰謀が取り憑き、数奇で苛烈な運命をたどることを余儀なくされる。


サンティアーゴ・バハーレスといいアルトゥール・ペレス・レベルテといい、スペイン語系の作家の小説の深みに最近すっかり魅了されていたところ、書店で本書を発見、スペイン人の著者は本作が1作目にもかかわらず、2006年の出版直後より本書は大ベストセラーとなり、スペイン国内では1年近く売り上げベストランク首位を守りつづけたとのこと。しかも、中世のバルセロナ、なおかつ教会を物語の中心的なモティーフに据えてあるとくれば、これはもう読まないわけにはなりません。結果として、またもや睡眠時間の減少と闘いつつ、物語の世界に心奪われることとなりました。


バハーレスやレベルテの描く世界は、なにか幻想的で美しく、言葉によって世界が静かに、しかしいきいきと鼓動をはじめる、そんな穏やかさがあったように感じます。しかし、ファルコネスの描き出す世界は、なんとも凄惨な中世のカタルーニャ地方の生活を描き出してゆきます。まず、冒頭に配された主人公の父親であるバルナットの逃亡のエピソードからして、目を背けたくなるような描写が連続するのですが、その後のバルセロナでの主人公たちが目の当たりにする世界も、これまた強烈です。


例えば主人公の親友となるジュアンは、母が不義を働き、一生小さな窓のある小屋に幽閉状態にあります。彼女が息子にしてあげられるのは、窓からそっと手を出しその頭をなでてあげるだけ。この母の存在が、ジュアンの精神形成に大きな影響を与えてゆくことになります。また、バルセロナにおけるユダヤ人の迫害や、奴隷たちの扱われ方も、筆者はけっして容赦することなく描き出してゆきます。


なによりも本書を支配的に位置づけるのは、その時代の男女の差別的な関係や、または身分制度に裏付けされた領主や貴族たちの無慈悲きわまりないあり方によって、立場の弱いものが徹底的に虐げられる姿にあります。このあたり、筆者はあとがきにて以下のように述べます。

筆者は、この小説の全編をつうじて語られる女性や農民にたいする見解とは意見をともにしない。これはみな、1381年ころに修道士フランセスク・アイシメニスが著した「ロ・クラスティア(Lo crestia)」からそのまま引いてきたものである。

本書を通じて、主人公たちは女性の嫉妬や「愚かな」振る舞いにより、その人生を大きく狂わしてゆきます。作劇法として、これは僕には幾分腑に落ちないものがありました。当時の言説を取り入れながらも、対位的にその理不尽さを描き出してゆくような、登場人物たちの描き方もあるのではないか、と。


しかし、読み終わってみると、本書で語られる理不尽さは、この作劇法によって大きな力を得ていると感じます。また、本書が描き出す愚かさや理不尽さは、けっして女性に表し出されるものではなく、その世を生きるすべての人間に映し出されているのではないか、とも考えさせられました。そこで大きな存在として立ち現れるのが、ジョアンがその職業として選ぶことになる異端審問官の、常軌を逸した非人道性です。この非人道性すら、歴史の中でほんとうに行われていたことだと描く著者の言葉は、このような群像劇の中にしか、説得力を持って立ち現れてこないのかもしれません。


重く苦しい本書ですが、でもいちばんどきどきしたのは、上巻の中程、海の聖母教会が立て直される工事のさい、バットレスの頂点にキーストーンが設置される場面でした。日本家屋で言うと上棟式みたいなものだと思うのですが、そこでの緊張感と造形的な美しさに、読む手をしばし止め、ああ、バルセロナに行きたいなあ、と心から思わされたのです。