柳広司:キング&クイーン

キング&クイーン (100周年書き下ろし)

キング&クイーン (100周年書き下ろし)

ある出来事をきっかけに警視庁警備部警護課、通称SPを辞職し、六本木のバーで「用心棒」として働く主人公の女性冬木は、その評判を知った客の一人から、ある男のボディーガードを依頼される。その男とは、元チェス世界王者のアメリカ人で、なぜか暴力団アメリカ政府などから狙われているらしい。渋々依頼を引き受けた冬木は、しかしその男性のあまりの奇矯な行動に振り回され、大変な迷惑をこうむることになる。


柳広司氏の新作、発売を楽しみにしていた一ヶ月でした。あいかわらずたいへん楽しい物語が保証書付きで提供されたようなもので、間違いなく面白いはずさと思って読んでみたら、やっぱり面白い。以前より入れ子構造的な世界の作り方を強調することは無くなり、そのぶんいくらか軽みを増しているような感覚もありますが、いっぽうで物語のスピード感と抜けの良さは、ますます強まっているとも感じられました。


ジョーカー・ゲーム」や「ダブル・ジョーカー」で、いままで古典や近代における重要な人々や出来事に材を採ってきた筆者は、ある意味ではじめて現代的な世界を描き出したなあと思ったのですが、本作は僕の思い出す限り、はじめて現代の世界を舞台にしたものです。しかし、これが「チェス」という、いささか僕の不案内な世界と対峙させられているところが、やはり柳氏らしいといてば柳氏らしい。


元チェス世界王者のアンディ・ウォーカーはまったくの変人で、主人公はコミュニケーションを成立させることすら拒まれます。こんな相手にしにくい人を守らなければならない冬木は、しかし「チェス」の世界を知ることで、アンディの考え方を少しづつ理解してゆきます。というか、理解せざるを得ない状況に追い込まれてゆきます。


この際、筆者はバーの常連客によってチェスの世界を朗々と歌い上げさせるのですが、これが僕には一番の面白い部分でした。ルールも知らず、当然遊んだことのないゲームが、まるで世界を表象する出来事のように表現される、これが突然ボディーガードの世界で進行していたはずの物語に差し挟まれる、その違和感と筆者のチェスに対する思い入れ(はもしかしたら無いかもしれませんが)が、なんとも読んでいて心地よいのです。


あと面白かったのが、同様に突然差し挟まれる、おそらく実在するであろうチェスの名人たちの奇行録です。一番笑ったのが、「史上最高の棋士」と評されたというアレクサンドル・アリョーヒンの逸話かなあ。乱暴者で重度のアル中だったかれは、チェスとチェックメイトという名の猫を飼っていました。そして、

彼は、猫嫌いの相手と対戦する時はかならず二匹を同行させ、対局中は二匹を相手にずっと話し続けていた。彼は自分には猫と話ができる能力があると信じていたが、不利な局面になると彼は猫たちを盤上に投げつけた。


こんな感じでいくつも紹介されるチェスの名人の弾けた行動は、その書かれ方があまりに淡々としているため、まるで重大犯罪をおこした人々の記録を読んでいるような気にさせられます。その一方で、物語はめりはりよく進み、主人公やその取り巻きたちの世界は、実に人間的な広がりを見せてゆく。このあたりの味付け具合は、やはり柳氏ならではだなあと思い至ったのです。ものすごく短時間で読み通してしまったけど、本書に詰められた世界はあいかわらず膨大にして潤沢、一方で物語自体はコンパクトに折りたたまれている、そんな読書感を感じつづけさせられました。