桜庭一樹:赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

山の民からなぜかひょっこり製鉄のまちの民家の前に捨てられた少女万葉、万葉が嫁いだ製鉄所のオーナーの家で生まれた毛毬、その二人の物語を語る毛毬の娘であるところの瞳子、この3人の女性を軸に、製鉄のまち紅緑村がどのように時代に翻弄され、そしてそれによってひとびとの暮らしがどのような変容を迫られたのかを描き出した物語。


万葉の物語は1953年から1975年まで、つまり終戦前夜から高度成長期のまっただなかまで、そして毛毬の物語は1979年から1998年まで、つまり中東戦争の影響を受け、日本経済の質が変わりはじめたころからバブル崩壊阪神淡路大震災のような、日本の根幹を揺るがす時代、最後に瞳子の物語は2000年から未来へ、これは言うなればポストバブルの世界からその後を見透す時代、この3つの時代を、それぞれの女の生き方を通じて描き出した、ある種の時代俯瞰的な物語かと、始めは感じました。


でも、何かがおかしい。例えば、山の民に捨てられた万葉は未来を「見て」しまう能力を持ちます。その娘、毛毬は思春期は暴走族のリーダーとしてやりたい放題暴れまくるも、その後なんと少女漫画家に転身、莫大な稼ぎを赤朽葉家にもたらします。そのまた娘である瞳子は、物語の語りでである一方で、万葉が見た「飛ぶ男」と、万葉のいまわの言葉に隠された謎に執着する、推理小説で言えば探偵役を演じることになります。


かといって、著者はそれぞれの女たちのこころに深く切り込むことは、あえて避けているように思えます。この辺が、本書の面白いところでした。とにかく、瞳子を語り手とすることで、物語は三人称形式で進むものの、「神の視点」はあくまで瞳子のものであり、それが最終章にいたって揺れ動くことになる、この巧妙にしかけられたフィクション性が、ある種の「謎」として提示される、万葉の謎めいたことばとともに、物語を大きく揺さぶっている、そんな感覚に、とらわれたのです。


まあ、そのあたりは僕の妙に気になったところ、というくらいのものだと思うのですが、本書の僕にとっての一番の興味は、その「同時代性」にあります。しかも、その「同時代性」は、語り手であるところの瞳子ではなく、その母の毛毬に通じるものがある。僕は1977年の生まれで、高度成長期の名残とバブルの狂騒、そしてそれが嘘のようにはじけた後の空気と、続く阪神淡路大震災オウム真理教事件という、世界をまったく変容させてしまった大事件に、高校生までに遭遇してしまった世代になります。これが、おそらく毛毬の世代と重なるところであり、そしておそらくおそらく、著者ももう少し世代的には上の世界から、俯瞰的に眺めていたのではないか、と思われます。


その意味で、僕には本書は極めて同時代性の強い世界の有り様を、一つの小さなコミュニティから描き出したもの、しかも、それが群像劇の様を呈することで、特に東京を中心とした強い広がりを持つもの、さらには、結局のところやはり一つの閉塞した世界に回帰するもの、そのような物語として、とても楽しめたと同時に、なにか突き抜けることができない時代性というか、はっきり言えば現代の行き詰まり感を、一方で力強く生きる女たちの視線から描き出したものに感じられました。


本書は三世代にわたる女たちから描いた一つの家系の物語、と理解することは極めて自然なことですが、僕にはそうは思えません。やはり語り手が瞳子ということが非常に影響していると思うのですが、これはすべて「現在」から懐古的に時代を見つめた物語なのです。そして、「現在」のどうしようもない閉塞感が、「過去」の製鉄所のまちの反映に投射されている、その「繁栄」と「閉塞」の狭間に置かれた毛毬の物語は、そこに生じるねじれを自らの人生で体現してしまった、極めて悲劇的なものとして語られているように思えます。物語としては当然めちゃくちゃ面白かったのだけれど、本書はむしろ著者の一つの作劇法の試みとして僕には受け取られ、その意味でも、とても刺激的な一冊に受け止められたのです。