ダン・シモンズ:エンディミオンの覚醒 上・下

エンディミオンの覚醒〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

エンディミオンの覚醒〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

エンディミオンの覚醒〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

エンディミオンの覚醒〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

前作「エンディミオン」では、「聖十字架」なる寄生体を身体に宿すことによって「不死」を得たキリスト教会に、過去からやってきた少女アイネイアーと主人公エンディミオンが逃げ回る冒険物語が展開されたが、引き続く本作ではいよいよアイネイアーが反撃に転ずる。といっても、相変わらず逃避行は続き、エンディミオンは一人で宇宙船を探す探索行に放り出され、巨大な空飛ぶイカや腎臓結石などの大いなる危機に襲われながら、なにを考えているのかよくわからないアイネイアーに振り回されつづける。


前作がヴェルギリウスの「アイネイアス」を下敷きにした逃避行だとすれば、本作は何を下敷きにした物語なのだろうか、そんなことをずっと考えながら読んでいたのですが、それより本作においてはじめて解き明かされるシュライクの本性や、そもそもの「ハイペリオン」における巡礼たちの過去と未来、そして物語世界の大きな円環とでもいうべき構造に、またしても睡眠時間を大幅に削らされることにあいなりました。まったく、大変に迷惑な物語です。


とまれ、本作の物語の背景をなすエピソードは、これは間違いなくナザレびとイエスイエス・キリストとなった物語、つまり新約聖書の世界ではないでしょうか。アイネイアーは予言を行い、また人々に教えを述べ、その教えを受けた人々がまた星々に旅立ってゆく、これは、イエス・キリストと12使徒の世界を表しているように思われます。ここで面白いのが、本作ではある意味徹底してダン・シモンズの東洋趣味、特に日本の中世文化に対する強烈なオブセッションが繰り出されるところです。例えば、天敵であるムスタファ枢機卿と対峙する場面で、アイネイアーは以下のように述べます。

「一休はほかにもこんな歌を書いています。それをもって、わたしの意見とさせていただきましょう。」
アイネイアーはそう答え、短歌を口にした。
それはこんな無いようだった。

「ゆく水に 数書くよりも はかなきは
   ほとけを頼む ひとの後の世」

この後にこの歌の解釈についていくつか議論がなされるのですが、まあ、それはよいとして、こんな感じで一休やら杜甫やらが続々と登場し、しかも本作の大きなエピソードをなす部分は、チベットをより急峻な世界にした絶壁の世界で展開されるという(しかもポタラ宮も登場する!)、なんだか良く訳のわからない、不思議な空気が見事に成立しているところが素晴らしい。


このようなSF的ガジェットの世界も素晴らしいのですが、それと同時に、本作を読みながらダン・シモンズが作り出す世界観のあまりの壮大さに、目がくらむような思いをさせられたことも確かです。それは、本作の核心に関わることなのだけれども、とても物語のために作り上げられた思想体系とは思えない。かといって、こんなことを日常的に考えていて、そうだ、小説にしてやろう!と思ったとも思えません。物語が作者を取り込みながら、新たなる大きな物語を作り上げてしまった、そんな物語の醍醐味を、感じっぱなしの読書体験でした。


しかし、「ハイペリオン」ではユダヤ的世界を展開し、「エンディミオン」では打って変わってギリシャ神話の世界を展開させながら、徹底的にキリスト教を皮肉っていたとしか思えないこの物語が、どうして圧倒的にキリスト教徒の比率の多い北アメリカで受けいれられたのか、不思議でたまらなかったのですが、「覚醒」を読んでなんとなく、そういうことでは無かったのかなあと思いさせられました。ダン・シモンズの大きなテーマの中に「多様性」があると思うのですが、筆者は果敢にもユダヤ・キリスト・イスラム教だけでなく、仏教や禅宗を含めた宗教の混交と受容の可能性に挑んだのではないか、そのように感じさせられるのです。本書の結末は、そのすべてをキャンセルさせ、そしてイエス・キリストの人生を本歌取りしつつもある種のハッピーエンドを迎えるように思わせるのですが、よく考えるとあまりそうとも言えない気もします。やはり、「多様性」が担保されるためにはなんらかの「割り切れなさ」と「あきらめ」、そして最後に「希望」が必要なのだと感じさせられる、そんな物語に思えました。