マイクル・コナリー:エコー・パーク

エコー・パーク(上) (講談社文庫)

エコー・パーク(上) (講談社文庫)

エコー・パーク(下) (講談社文庫)

エコー・パーク(下) (講談社文庫)

いったん警察を辞めたものの、やっぱり復職してしまったロス市警刑事のボッシュは、ある日別件で逮捕された男が、ボッシュの解き明かすことができず、そしてこれぞと定めた容疑者のいる事件について、重要な事実を語り出したことを知る。それまでの自分の検討が的外れであった可能性と、そしてこの供述にはなにか裏があるのではないかという可能性のなかで揺れ動くボッシュたちは、一方でその男に実況見分をさせ、死体を発見してしまう。その直後に男は逃走し、相棒は撃たれ、偉いやつは逃げ、政治的目論見は錯綜し、相変わらずの大騒ぎになるはなし。


こんなにミステリーばかり読んでいて言うのもなんなんですが、僕はあまり人が殺される場面や物語が好きではありません。その、よく考えれば陰惨で陰鬱な情景は、あまり頁をめくるモチベーションにはならないのです。本書も、始めの出だしはなんともやりきれない感じで、ああ、もう人が殺される話を読むのは辞めようと、つい思ってしまいました。しかし、プロローグを過ぎるとぐっと物語の方向性が変化し、やっぱりどんどん読み進んでしまう。結局寝る間を惜しんで読み通してしまう、この魅力はなんなんだろうかなあ。あまり難しく考えなくても本書は間違いなく今年のベストテンには入るものと思われますが、やっぱりその理由を考えてしまいます。


思うに、マイクル・コナリーが描き出しているのは、僕にとっては法律的手続き論なのです。証拠がどのように扱われ、証言がどのように記録され、そしてそれらがどのように法廷にて提示されるか、その手続き論こそが、コナリーの一連の刑事シリーズの背骨、もしくは構造として機能しているように思えます。また、そこでの登場人物も、検事や弁護士、判事、刑事など、正直僕にはどうでも良いというか、よくわからない種族の人々なのですが、この種族の違いが大きく物語に影響を及ぼしているところも、知識が無いからかも知れませんがとても面白いのです。


では、物語の中身についてはどうか。本作では、10数年も前の未解決事件の犯人として、司法取引を申し出る男とそれを信じられないボッシュの、ある種の心理戦が展開されてゆきます。しかしコナリーがほんとうにうまいなあと思わされるのは、その筋道は、実は上記のような一本道に収束することなく、読めば読むほど様々な可能性が展開し、そして次々とそれらが否定されてゆく、その物語の息ののばし方というか、血の巡り方にあるのです。なんというか、読者をある方向に向かせておいて、やおらひっくり返すという手法は、たとえを挙げるまでもなく良く使われますし、一方で行き当たりばったりとしか思えない超絶推理で強引に物語を展開する手法も、これも常套手段だと思われます。どちらが悪いというわけでもないのだけれど、コナリーはどちらとも違う、なにか極めて共感のしやすい物語の作り方をしているように思えます。


それは、ボッシュの気持ちがくるくると変化し、すぐ落ち込んだかと思えばたいしたこともないことで浮き上がったりと、なんとなく理解しやすい構築をされていることにも現れているのですが、このような構築は物語全体にも感じられます。ボッシュはなにも確信することなく、その場において常に悩み、そしていくつかの選択肢から最善と思われるものを選択し、おまけに結果として大惨事をもたらしたりしてしまう。このあたりのどうしようもなさが、本書のもっとも優れた魅力のように思われるのです。


あと、これは本書の本質とはまったく関係ありませんが、LAの南60マイルのオレンジカウンティで一年ほど暮らしていたためか、LAの描写が出てくる物語はなんだか魅力を感じてしまいます。本書でも、ドジャーズスタジアムやハイウェイの名前など、懐かしい名前が頻出で楽しめました。ところが肝心のエコー・パークは覚えていなくて、地図で調べてみたらダウンタウンのちょっと北、ものすごく治安が悪いイメージのあるところでした。そういえば、LAについた直後、知り合いに案内をしてあげると言われ、LA暴動の発火点から北上し、サンセットストリップからハリウッド、ビバリーヒルズを経由してサンタモニカまでドライブしてもらったのですが、あまりの格差の露骨な現れ方に驚愕したことを、なつかしく思い出しました。コナリーの小説に通奏低音のように流れる人種間の対立は、ある意味とてもLA的なものとして、響いてくるものがあります。そういえば、僕がLAに一帯1999年はちょうどLA暴動から10年経過した時で、その「記念Tシャツ」は今でも大事に着ています。