マイケル・バー=ゾウハー:エニグマ奇襲指令

エニグマ奇襲指令 (ハヤカワ文庫 NV 234)

エニグマ奇襲指令 (ハヤカワ文庫 NV 234)

第二次世界大戦終結前夜、ドイツ軍の誇る暗号制作機「エニグマ」を奪取されることを依頼された「男爵」ヴェルヴォアールは、単身ドイツ軍占領下にあるフランスに潜入し、あの手この手を弄して作戦を練り上げる。しかし、なぜかいつも情報はだだ漏れに漏れ、そんなはずでなかった窮地に立たされることになるはなし。


一読した感想としては、なかなか複雑なはなしだなあという感じでした。著者の、ブルガリア生まれのユダヤ人でナチスの弾圧をうけてイスラエルに移住、その後パリ大学で博士号を取得してから中東戦争に従軍、ハイファ大学の教鞭をとりつつ国会議員まで成ったという来歴からすれば、ばりばりの反ナチス、反枢軸国的な態度は容易に予想できるのですが、物語としての構成は、それほど単純ではないところが素晴らしい。


全体の雰囲気として、本書は「ルパン三世」の世界と言えます。もしくは、「ルパン三世」が本書を下書きにしたのではないか、そんな気分さえ思わせる構成を持ちます。主人公は、数奇な生まれつきの人間で、英語とフランス語を自由にしゃべり、「男爵」と呼ばれるまでの凄腕の泥棒でありつつも、麻薬と銃にには決して手を出さない。もちろん、人を殺すなんてとんでもないわけです。まあ、ルパン三世的な主人公であります。


彼がナチスから金を半トン盗んで逃亡したため、色々と足が出てイギリス軍に捕獲され、厳重な警戒下にある収容所に閉じ込められた、そこにイギリス軍の情報部局のお偉方が訪れる場面から、物語は始まります。お偉方は、ドイツ軍の暗号製造器、「エニグマ」を盗み出し、しかも盗まれたとわからないよう現場を破壊することを男爵に依頼します。これは、「エニグマ」が盗まれたとわかればドイツ軍の暗号制作が変更されることを恐れたためで、サイモン・シンの「暗号解読」を読んでおいたためか、なるほどとおもわされる物語の設定であります。


そのようなイギリス軍の応援を一心に受け単身フランスに潜入する男爵は、しかしながら著しい妨害工作に直面することになります。なにかがおかしい。そのため、信念を曲げてまで作を弄する男爵と、彼に巻き込まれる人々の哀しい有様が、本書のもっとも重要な旋律を奏で挙げている、そんないたたまれない雰囲気で、物語は展開してゆきます。


著者の、ゲシュタポに対する心からの憎悪は、本書を通じて厳しく読者の心に投げかけられるところがあることは否定できません。しかし面白いのは、ドイツ軍の兵士、すなわち「ドイツ人」とされるひとびとの描写において、著者はけっして単純な排他的描写を採用しないところにあります。戦争の悲惨さ、それは、どの立場に置いても成立しうると言う命題を、このようなフィクションを用いて描き出す著者の筆力には、ただただ、感嘆せざるを得ないところがあると思わされました。それは、本書の最終的なエピソードに如実に表れるのですが、その何とも言えぬ悲しさを、単純な勧善懲悪的な世界に着地させないところに、著者の経験の深い悲しみと、人間性に関する洞察が、現れているように思われてしかたありません。


最近いろいろな出版社で復刻版が出版されているなかで、J. G. バラードのようなあまり評価されていなかった作家の再評価も嬉しいのですが、このような中東戦争さなかに描かれた小説が、この時代に復刻されるということ、その編集者の見識には、頭が下がる思いがしてなりません。新刊をどんどん出すのも良いのですが、このような作品を読める幸せを、感じさせられた一冊でありました。この勢いで、石川淳や(現役の作家ですが)久間十義の初期作品なども復刊されないかなあ。