ダン・シモンズ:イリアム 上・下

とんでもない未来、「神々」にむりやり生き返らされ、そのとんでもない技術を用いてホメロスの「イーリアス」に謳われるトロイア攻防戦の記録を行う、もともとは大学の古典の教授であったホッケンベリーの物語、そしてこれまた遠く未来で「ポスト・ヒューマン」に庇護されながら20年ごとに若返り、そして100年で寿命を迎える「古典的人類」の桃語、加えて今は滅びた人類が太陽系の外に根づかせた、「モラヴェック」と呼ばれる自律的な機械の体を持った知性体の体験する物語の、三つの物語が同時に進行し、微妙に重なるという不思議な一大SF叙情詩。


まあ、「叙情詩」と呼ぶほど詩的ではないかもしれませんし、物語は極めて散文的に展開するのですが、しかしやはり「叙情詩」ということばは本書には似つかわしく思います。まず強烈なのが、本書では未来からやってきた記録者が記述するという形式で、トロイア戦争の情景が生々しく描き出されるところにあります。


トロイア戦争(または「イリアス」として知られる物語)と言えば、僕の知る限りでは講談社学術文庫にいくつか訳書があったような気がするのですが、それ以外で読もうとするとどうにも学術的で、とても手に取る気にはなりません。それでもおぼろげながら何となくの内容は知ってはいたのだけれど、本書はその神話と史実すれすれの世界を、きわめて現代的な口調で、生々しく描き出してゆきます。途中から物語の展開に従い「イリアス」との距離感が生じ始めるのですが、それでも本書はローマ成立以前、ギリシャ神話以後の世界を、原題に力強くよみがえらせたという点で、特筆すべき奇書であり稀書であると思われます。


それとはどういう関係があるのか、当初はまったくわからずに展開する二つの物語も、これも文句なしに面白い。「古典的人類」の怠惰な生活と、そこから突然始まる探求の物語は、途中であまりにもユダヤ教的世界が展開し、ちょっと食傷気味になってしまったことは否めませんが、本書でもっとも物語的な構成を見せ、読み手を力づくで読み進めさせるものがあります。そして僕が一番楽しんだのは、「モラヴェック」と呼ばれる機械知性体の物語でした。ここでは、海底を調査することに特化して設計された「マーンムート」さんと、宇宙空間での作業に特化して設計された「イオのオルフ」さんが主たる登場人物なのですが、彼らの会話がなんとも心地よい。


この「モラヴェック」と呼ばれる知性体たちは、それぞれの「使命」を持ち、その「使命」に特化した体の構造を持つのですが、それとは別に人間の文化に対する趣味を持つものも居ます。上述の二人はまさにそのタイプで「マーンムート」はシェイクスピアに、そして「イオのオルフ」はプルーストの著作に熱烈な興味を持ち、えんえんと文学談義を繰り広げます。物語自体は、木星の衛星で活動している彼らが火星に送られ、そこで様々な困難に立ち向かいつつも一つのミッションを成功させようと努力する話なのですが、その中で絶えず繰り返されるのが、シェイクスピアの登場人物に対する解釈の議論であったり、プルーストが物語を通して行ったいくつかの試みに対する議論でであったりと、読んでいてめまいがするほどシュールな展開を見せつけます。


しかし、読みながらこの三つの物語は本当にある地点に着地するのかと心配になりましたが、読み終わってみると、着地したのかしていないのか、よくわからないような状況に放り出されたように思います。少なくともイーリアスとモラヴェックの物語は着地を見ましたが、それでも謎はすべてが明らかになったわけではありません。これは続編の「オリュンポス」を読みなさいということだと思うのですが、文庫化されるまで待っていられるとはとても思わないので、以前半分まで読んで読み切れなかった「ハイペリオン」の文庫版上下から先に読んでみようと思います。しかしまあ、凄い作家もいたものです。物語に取り憑かれてしまっているとしか思えない構想力と妄想力には、なにか恐ろしいまでの執念を感じさせ、とても読まないわけにはいかない気分にさせられました。