桜庭一樹:少女七竈と七人の可愛そうな大人

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

突然男に身を浸してみたいと思い、七人の男と交わり父親不詳の娘を身ごもった母は、娘が大きくなると家を頻繁に空けるようになり、七竈と名付けられた娘は祖父とひっそりと暮らしていた。ところが、七竈は大変に美しく、いろいろな人々の注目を集めてしまう。それから逃げるように、これまた美しい幼なじみの少年雪風と、ひがな自宅で鉄道模型で遊んでいたのだが、小さな町で、さまざまな出来事が二人に襲いかかり、悩ましくもどかしいはなし。


物語の出だしは、普通の小学校の教師である女性がとつぜん「いんらんに」なって「辻斬りのように」男遊びをしてみたいとのたまうモノローグからはじまり、あらまあ素敵と思いながら読み進むと、すぐに彼女は舞台袖に降りてしまい、彼女の娘である七竈の一人称で物語が語られます。と思ったのもつかの間、物語の語り手は章ごとに犬であったり、雪風であったり、雪風の母であったり、そしてまた七竈であったりと、揺れ動く視点の中で物語のエントロピーは増大し、拡散しながらもある一つの収束点へ向かって静かに落ち着いてゆく、あまり言語化しきれてはいませんが、なにかそのような美しさと力強さを感じさせる作品でした。


あらすじだけを書くとなにかものものしく思えるかも知れませんが、本書は基本的にとても楽しい読み物です。例えば第一章の書き出しの「わたし、川村七竈はたいへん遺憾ながら、美しく育ってしまった。」という主人公である七竈の地の文に、なにか太宰治的な、もしくは森見登美彦的な諧謔を感じてしまうこの雰囲気は、物語全編を通じて感じられます。


例えば、雪風に恋心を抱く「後輩」が、雪風の趣味が鉄道と知って主人公に詰問する場面。

「先輩」
「・・・・・・なんでしょう」
「鉄道のことを教えてください。種類とか、なんの話をしたら話をあわせられるのとか」
「な!」
わたしは険しい顔をしてずんずん歩いた。しかし、緒方みすずはついてくる。なかなかに粘り強い。花の匂いも増してくる。いつまでもさえずりつづけるその顔を振り向いて、わたしはほんとうに怒っている顔をして、言った。
「あなた、鉄道というものは」
「はい、なんでしょ?」
「考えるものではありません。ましてや学ぶものでも」
「え?」
「鉄道は、感じるものです。あなたにはきっと天罰が!」
わたしの声に、緒方みすずはけらけらと笑った。

全編を通じ、こんな感じでリズム良く、また極めて軽快なのだけれども、ひとつひとつの言葉がここぞという場所に置かれた文章が繰り広げられます。この、文章に対する偏愛というか過剰なこだわりには、やはり著者の文章に対する因果な思い入れを感じざるを得ず、そこがなにか、森見氏というか、太宰治というか、とにかく日本近代文学的な世界を感じさせる一つの理由なのかもしれません。


一方で、「日本近代文学」的文章が極めてメタ的というか、自己言及的な側面を持ち、すなわちある種の一歩引いた視線を感じさせることが多いように思えるのですが、本作は読めば読むほど文章に対する装飾的な側面が薄まってゆき、どんどんと物語の世界に文章それ自体が回収されてゆくような、そんな不思議な感覚を感じさせました。森見氏が、徹底的に「文学」をパロディー化しているのだとすれば、桜庭氏の作品には、なにか物語自体に文章や作者が取り込まれてしまっている、そんな雰囲気すら感じさせます。


本作は、言ってみれば七竈と雪風の、出会いと発見と別れの話のように思えます。そこでは、ただただ美しいだけの世界が、極めて美しくない事情によって構築されてゆく。登場人物たちは、その舞台に現れ出でる書き割りのような、そしてまったく自律的に動こうとはしない、もしくはできない存在なのだけれども、物語の流れとともに緊張感はどんどん高まり、最後には曰く言い難いカタルシスが感じられてしまうのです。


森見登美彦氏の物語が「男の子小説」だとすれば、桜庭一樹氏の物語は「女の子小説」と言えるのかもしれません。でも、どちらもとても素敵なことは間違いない。そして牧野千穂氏の手による本文中のイラストも、ぞっとするくらいに素晴らしい。いまごろ読んだのか、と思われるかも知れませんが、今まで読むことがなかったことが幸せに思える、そんな一冊でした。