柳広司:我輩はシャーロック・ホームズである

出張中のホームズの留守をまもるワトスン博士のもとに、ある日ひとりの日本人がやってくる。彼はどうやら日本からの留学生、夏目金之助らしいのだが、どうしたことか自分をシャーロック・ホームズだと思い込み、あろうことかそのまま居着いてしまう。夏目の指導教官にあたるアイルランド人の研究者が、夏目が精神的に混乱しているため治療して欲しいとの思いで送り込んだことを知ったワトスンは、ナツメに変装したと言い張る「ホームズ」と生活をともにし始めるのだが、そんな時にロンドン塔での魔女騒ぎや降霊会での殺人事件が勃発、「ホームズ」が張り切って間違った推理を展開するはなし。


ことごとく的を外す自称「ホームズ」が繰り広げる推理や、一方でその博識と精力的なあり方に徐々に魅力を感じ入ってしまうワトスンの描き方は、思わず物語の世界に引き込まれ心ゆくまで楽しめてしまうのですが、それでもなぜか、不穏な非現実感というか、奇妙な違和感を感じざるを得ないこの物語は、やはり柳広司氏にしか作り得ない、世界のあり様を文章がここまで変質させることができるのかと思わせる、異様な力強さに満ちあふれているように思います。


「贋作「坊っちゃん」殺人事件」では、「坊っちゃん」のその後を描きながらこれでもかというくらい虚構のなかに虚構を積み上げた作者が、本作では虚構の中に実在の人物を投げ入れ、しかもそこに多重的な世界を響かせることによって異様な現実感を作り出すという、とてもひねくれた作業が展開されます。だって物語の始めからしてワトスンの一人称ではじまりますからね。そこに錯乱したナツメが現れるという、理解の範疇を逸脱した事態が勃発します。


そこでのナツメの言動はホームズのコピーに他ならないのだけれども、それがことごとく迷走をしてしまう。苦笑するワトスンは、しかしナツメの言動はホームズのそれと本質的にはまったく変わらないのではないかとショックを受けてしまい、あげくのはてに「現実」の側に居るはずのワトスンは、徐々に虚構の世界に足を踏み入れてゆくことになります。この。もう転倒に転倒を繰り返すという構成に、これでもかとい言うくらい、読み手のよって立つ「現実感」は揺さぶられることになります。


しかも、結果的に物語に通奏低音のように流れる出来事は、南アフリカで勃発したイギリス帝国とブーア人との戦闘行為の是非に関わるものであり、それが立場によってどのように異なった意味をもってゆくのか、主人公であるワトスンは鋭く追求されてゆきます。ここに至って、いつものことですが虚構によって現実の「真実さ」が脱構築されてゆくという、柳氏の真骨頂ともいえる舞台が形成されてゆくのですが、本作はすでに述べたとおり物語の成立からして不穏な非現実感を漂わせているからたちが悪い。結局作者は僕をどのような世界に投げ出したいのか、読みながらなんども考えてしまう、もどかしくも極めて刺激的な、そんな読書空間が本書には感じられます。文章の構成のみ成らずことばの運びの切れ味の良さもいつもながらで、響き渡る知性と決して割り切らない力強さ、そんな感覚に、相変わらずこころを奪われてしまった一冊でした。