押井守:ケルベロス 鋼鉄の猟犬

ケルベロス 鋼鉄の猟犬

ケルベロス 鋼鉄の猟犬

クラウス・シュタウフェンベルグによるヒトラー暗殺計画が成功したパラレルワールドにおける、第二次世界大戦終戦間近を舞台にして、装甲猟兵大隊「ケルベロス」のドキュメンタリー映画の作成をもくろむ女性監督の、主にスターリングラード攻防戦における有様をえがいた物語。


押井守氏で「ケルベロス」といえば、もちろん「地獄の番犬 ケルベロス」を思い浮かべるのですが、その作品に感じられるある種の虚無感は本作にも感じられるものの、意外としっかりとしたストーリー運びを見せる展開には、なにか虚を突かれたような、不思議な感覚を感じました。でも、「紅い眼鏡」で執拗に繰り返された食事のシーンは、やはりいくども顔を出すのは押井守氏らしい描写だなあとも思いましたが。


読みながら、これはいったい何を主題としているのだろうかと、いくども考えさせられる物語でした。初めのうちは第二次世界大戦バージョンの京極夏彦氏的な雰囲気というか、不必要なまでに軍備・戦略的な記述が横溢し、これは物語ではなくて歴史の教科書ではないか、そんな感じさえ漂うのです。しかし、読み進めてゆくとなにかそれ以上のものが感じられます。例えば、主人公はクラウスの姪でありながら父親は日本人であり、正史のなかでは「敵性市民」として扱われた人であること、そのターゲットがヒトラーの手駒とも言うべき典礼用の歩兵大隊であること、そして泥沼の退却戦に主人公たちが巻き込まれてゆくことなど。


多分に戦争に対する押井氏のオブセッションも感じられるのですが、それ以上に、本作には押井氏の好む事実の多重性、または現実を一意に定義することの不可能さが、強く表れているように思えました。「うる星やつら ビューティフルドリーマー」にも感じられた、終わりなき日常にひそむ大きな亀裂を、文章という形であることによって過剰な自由度を与えて表現したもの、そんな作品に、本作は感じられたのです。


しかし、主人公が映画監督というところが、また解釈が難しいところです。これは、押井氏のどのようなこころの風景を投影したものなのか、そしてこの展開における映画の力の弱さがいったい何を意味するのか、次に押井氏がとる映画作品がどのようなものになるのか、なんだか楽しみのような、恐ろしいような、そんな思いを受けさせられました。