D. M. ディヴァイン:厄災の紳士

災厄の紳士 (創元推理文庫)

災厄の紳士 (創元推理文庫)

故あってプロのジゴロをなりわいとする美形の男は、パリに遊びに来ていた美しい女性をターゲットとして商売を開始、数週間でうち解けた彼は、彼女の「婚約者」になることに成功する。彼女は、イギリスの片田舎に生息する、昔は勇名をはせた作家の娘で、実家に彼を連れて帰ると当然のように猛反対が巻き上がるが、それでも彼は婚約者としての地位を保つことに成功する。そして、いよいよ正式な婚約という夜、思わぬ事態が勃発し、物語は不穏な急展開を迎えることになる。


1971年の作品ですからいくぶん古色蒼然としたところはあるものの、物語の面白さと新しさにはまったく関係がない、そんなことを思わせる、しっとりとした良さを感じさせるとても素敵な作品でした。いっけんリューインのような、軽く洒脱なジゴロの男の苦労話に思わせるのだけれど、そう見せる前半からいきなり話し手までが変わってしまう後半へのダイナミックな構成は、びっくりさせられるとともに、力強く物語に引き込むものがあります。


この物語の妙は、まず構成の巧みさにあると思われます。始めはジゴロの視点から語られる物語は、彼の極めて巧みで、なおかつ楽天的な世界から展開されるのですが、後半になるとジゴロに狙われた女性の姉が、重要な物語の語り手として出現します。ジゴロに「こんな地味な女性が!」と思わせる彼女の思考は、これがまた極めてとぎすまされ、またジゴロの性格が様々な人々からもみくちゃに語られるところに至って、語り手と物語の関係を深く考えさせられるという、極めて興味深い体験を味わうことができました。


このような、巧みな語り手の展開に代表される語りの深みというか、構成の複雑さは、そのまま物語にえもいえぬ奥行きを作り出します。だれもがだれかのことを言及する度に、ある人から見た「真実」がことごとく否定されてゆく、そのうちにまったく輪郭を失ってゆく「現実」の中で、唯一力強く描き出されるのは、それぞれの登場人物の直面するそれぞれの「真実」であり、そこでの人生のありかた、というか、言ってしまえば人生のさまざまなつまずきと、救済の物語に思えました。


結局推理小説としてどうなの、ということですが、これが文句なしに面白い。それは、上述のごとく、物語全体が「真実」を脱構築しながら、様々な角度で組立直すという、構成それ自体が推理小説としての力強さを下支えしている、というよりむしろこの構成自体が、推理小説を形づくっているように思えるのです。そこではなにが推理小説か、という問題は当然生じるわけですが、ぼくにとっては「真実」をある側面から描き出すこと、そしてそれが一意に同定される中で、真実の多重性がいやおうなしに明らかにされるもの、といった感じを、本書を読みながら強く思わされました。


最後まで読んで気がついたのですが、本書の解説は鳥飼否宇氏なんですね。この解説がまた素晴らしい。こんな著者と著作に対する愛にあふれながらも、的確な分析が展開される解説は、少なくとも推理小説にはめずらしいように思います。須賀敦子さんが書いた解説を読むような、そんな充実感さえ感じさせられました。しかし、鳥飼氏がこんなまじめな文章を書くなんて、それもとっても意外で楽しめました。