須賀敦子:ヴェネツィアの宿

ヴェネツィアの宿 (文春文庫)

ヴェネツィアの宿 (文春文庫)

シンポジウムに出席するためヴェネツィアを訪れた筆者は、ホテルへの道すがらフェニーチェ劇場をとおりがかり、そこに多くのひとびとが 群れ集う光景を発見する。フェニーチェ劇場創立二百周年記念のガラコンサートが、劇場の外の広場にも、スピーカーで音楽が供されていたのだ。その隣の宿に投宿し、旅の疲れからか寝付けずにいる筆者は、窓の外から聞こえてくるコンサートや拍手の音、そして人々が帰途につく足音などを聞きながら、若き日にヨーロッパを大旅行した父の思い出に身を浸してゆく。


須賀さんの著作は、どれから読んでも、どれを読んでも心の深い部分で楽しめると思うのですが、本作はぼくはなるべくなら他の著作を読んでからのほうが良いと思う。ここでは、僕がこれまでずっと不思議に思っていた、須賀さんの生い立ちや日本での生活が、たの様々な著作に登場した人物たちとともに、つまびやかに語られるからです。


本作は、放蕩息子であった須賀さんの父の若き日の姿を描く「ヴェネツィアの宿」から始まり、戦時中にであった疎開先の親戚のはなしや、パリに留学した当初の生活、知り合いのイタリア人の写り記に巻き込まれてしまった日本人女性とのやりとりなど、全体としてみたときに、ある一つのテーマをみつけるのは難しいような印象を受けます。しかし、他の著作を読んだ上で感じるのは、ここには著者の不安や軋轢、そしてそれがどのように収束を見たのかと言うことが、肩の力の抜けたとても伸びやかな筆致で描かれているというものです。


例えば、父が愛人をつくって家出をしてしまい、その後数年たって突然帰ってくるエピソードなど、おそらく須賀さんや彼女の母親の苦悩は大変大きなものだったと思われるのですが、そこは須賀さんらしく、恬淡と、まるで人ごとのように、でなければ昔を「こんな大変なことがあったけれども面白かった」というように、訥々と語られます。最初の留学先のパリの寄宿舎のエピソードなど、これはそうとう厳しい環境だったろうなあと思わされるのですが、これもなにか明るく軽い。こんなこともあった、だから人生は面白い、そんな気持ちで書かれたのではないかなあ。


しかし、それは同時にとても大きな苦難を乗り越えたことのある人だからこそ、立ちうる視点であると思うし、その苦難の激しさは、「アスフォデロの野をわたって」という一篇にかいまみることができます。これは、出不精であった夫のペッピーノと珍しくヴァカンスに出かけたことを描いたものですが、そのなかで二人はペストゥムの遺跡という場所をおとづれます。そこで夫の姿を見失った須賀さんは、ふと「アキレウスは、アスフォデロの野を  どんどん横切ってしまった」という、「オデュッセイア」の一節を思い浮かべます。その一節が暗に意味することがらのごとく、その後ペッピーノは肋膜炎で急逝してしまいます。おそらく、須賀さんが夫の死を主題に描いた文章は、僕の読んだ限りでは本編がはじめてであり、おそらく最後ではないかと思われます。


本書のなかでももっとも素敵に思えたのが、一番最後の「オリエント・エクスプレス」です。おみやげなど求めたことのない父が、病床から須賀さんにおみやげを要求します。それが、なぜか「ワゴン・リ社の客室の模型と、オリエント・エクスプレスのコーヒー・カップ」なのです。とくにコーヒーカップの入手方法について、途方に暮れてしまった須賀さんは、直接オリエント・エクスプレスの車掌さんに事情を説明します。すると車掌さんはおもむろに客車にとってかえし、一つのコーヒー・カップを包んで持たせてくれる。それを持って日本に急ぎ帰国した筆者に、もう焦点もあわさらない父は「オリエント・エクスプレス・・・・・・は?」とささやきます。模型とコーヒー・カップをそっとベッドの隣に置くのを見届けるように、父の意識は遠のいてゆきます。


「翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ、あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。」