野阿梓:兇天使

兇天使 (ハヤカワ文庫JA)

兇天使 (ハヤカワ文庫JA)

天使の親分から下界での問題を解決するように命ぜられたパンキッシュな熾天使セラフィが、地上でこどもを悪龍ジラフに殺されたアフロディッテの対応に苦慮する物語と、中世の没落貴族ホレイショがデンマークの王ハムレットと織りなす物語、そしてシェイクスピアが「ハムレット」を構想するに至る幻想的な物語の、三つの物語が織りなす壮大な交響詩

「本は解説で選ぼう」と帯に書かれた本書の解説はあの大森望氏で、しかも解説の冒頭から「SF史に燦然と光り輝く傑作中の傑作」と大絶賛。これは読むしかないなあと思ったのですが、その言に違わず確かに傑作と言える一冊でありました。


野阿梓氏といえば、僕には濃密な同性愛描写を特異とする耽美的作家という印象が強かったのですが、どうやら初期の作品である本作にはその手の傾向はほとんど感じさせることはなく、むしろ「ハムレット」を主題とした二つの物語(ハムレット自身の物語と、シェイクスピアにまつわる物語)を見事にもつれあいながら語りつつ、そこに神がかったとしか言いようのない様々な歴史的エピソードを混ぜ込み、その混沌とした世界を神々の争いという一点に置いて力強くまとめきってしまうという、神話と虚構、そして虚構の中で語られる(ハムレットの物語)、ある種の歴史的物語が並列される、曲芸的作品のように思えました。

本書の大きな特徴は、物語の中核をなすエピソードが、ホレイショを主人公としたハムレットにまつわる権謀術数の物語であることでしょう。この部分において、読者はまるで歴史の一断面を見せられているような気分に落とし込められます。しかし、突如主人公の視点がシェイクスピアへと転換し、またシェイクスピアが極めて非現実的な状況の中で「ハムレット」を構想するという展開の中で、いままで歴史的物語として理解してきたホレイショの物語が、一転して虚構の世界へと落ち込んでゆくのです。そして物語は、そのねじれた関係を見事に利用した、驚くべき展開を見せてゆくのです。

もちろん物語として、大森望氏のいうように「傑作中の傑作」であることは疑いようがないと思いましたが、面白かったのは自分が「ハムレット」の物語をまったく知らないという事実に気づかされたところでした。ハムレットって、イギリスの貴族の誰かかと思っていましたが、デンマークの王子様だったんだ。しかも、スウェーデンなど北欧諸国との政治的な緊張の中で、こんなに大変な経験をしたんですねえ。そのあたりの思わぬ自分の無知さに気がつかされただけでも、本書には大きな価値がありました。この一冊で、ハムレットの世界をけっこう知ることができるという意味でも、お勧めの作品だと思います。