山形孝夫:聖書の起原

聖書の起源 (ちくま学芸文庫)

聖書の起源 (ちくま学芸文庫)

旧約聖書新約聖書の成り立ちを、両書の成立に影響を与えたと思われる周辺文化や、またそれら文化との混交による聖書成立当時の人々の風習などから読み解いたもの。


「治癒神イエスを生んだ異教の神々の系譜」と書かれた帯に惹かれて購入、てっきり新刊かと思いきや、1976年に講談社から出版されたものが、本年になってちくま学芸文庫より再版されたと知って驚愕しました。なぜならば、文章はあくまで瑞々しくかつダイナミックで、しかもここで語られている内容が(もちろん僕の不勉強によるところが大きいとは思いますが)極めて斬新かつ説得力にあふれているからです。とても30年前に出版されたものとは思えない、年月による陳腐化や文章の古めかしさを感じない本書は、これぞ名著というものかと、文句なしに感じさせるものでした。


本書は膨大な旧約・新約聖書の膨大な文書のなかから、特に旧約聖書の冒頭の6書(創世記・出エジプト記レビ記民数記申命記ヨシュア記)と、新約聖書の四福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ福音書)をとりあげることで、旧約・新約聖書のまさに成立過程に、その時代を生きた人々のすがたを思い描きながら迫ったものです。これまでの僕の聖書の理解と言えば、旧約聖書とはイスラエルの民が迫害と逃亡によって各地を転々とする歴史物語、新約聖書ユダヤの民のものであった神をすべての人々の神とするイエス・キリストの伝道の物語といった程度のものでしたが、本書には目から鱗というか、まさに蒙が啓かれる、まったく新しい世界が示され、これまでの聖書理解が轟音と共に崩れ落ちてゆくような、そんな気分を感じさせられました。


まず旧約聖書から。著者は旧約聖書イスラエルの建国までの神とイスラエルの民の契約の物語と、イスラエル建国直後のイスラエルの民の離散による復古主義的な、それ故に部族と神との契約というそれまでのイスラエル宗教とはまったくことなる、個人と神との契約という、新たな形式を持った宗教の成立と捉えます。そして、ここからが本書の面目躍如といったところなのですが、このどちらの宗教の形式にも、遊牧民族から農耕民族への生活様式の移行への希求と反発、そしてそれに伴う土着の様々なオリエントの宗教との影響関係を、著者は読み解くのです。


それはバビロニアやシュメールの神話であり、古代オリエントの「過越祭(ベサハ)」であったり、シリアの地中海沿岸のまちウガリットで発見されたバァール神話であったりするのですが、本書が旧約聖書新約聖書のなかに連続性を見いだす重要な要素として指摘するのが土着の治癒神エシュムン神とアスクレピオス神であり、ここにいたって本書はあらたなる発見を僕にもたらしてくれました。


それというのも、僕は医療と福祉の建築計画を専門とするのですが、特に病院建築を手がける人にはアスクレピオスの名前は決して忘れることのできないものであるからです。特に、コス島のアスクレピオス神殿は、医学の礎を築いたとされるヒポクラテスの生まれた場所であり、病院の元祖と言っても良いのではと思われます。このいつかは行ってみたい場所リストの最上位に位置する場所の由来となったアスクレピオス神が、このような文脈であらわれたことには本当に驚きました。そういえば、アスクレピオス神てなんなんだろうとあらためて思ったのですが、著者はこの少ない分量の本文のなかで、そこまで丁寧に説明して見せます。


本書に戻ると、これらエシュムン神とアスクレピオス神をある意味駆逐するかたちで、ナザレびとイエスが治癒神であったキリスト・イエスへと変貌すること、そして新約聖書の「癒し」の文学が成立したことを、著者は多くの既往の研究を参照しながら述べてゆきます。ここも、僕には大きな驚きを感じさせる議論でした。イエス・キリストの奇跡に関しては、僕の読んできた書物の中では「そういうこともあったかも知れないけど、多分に精神的な側面がおおきかったんじゃないかな」といった理解が一般的だと思うのですが、著者は福音書に伝えられる癒しの物語が、それまでの神々の扱ってきた領域と大きくことなり、いわゆるタブーとされた人々や病状にまつわるものであったことを強調します。そして、そのことが、ナザレびとイエスを、治癒神キリストとして大きく脱皮させ、またそれまでの神々を駆逐するくらい、多くの人々へ影響力を与えたと読み解きます。


僕のつたない理解の範疇から読み解いた内容ですから、上記の事柄はどこまで著者が意図したものに即したものかは、正直地震がありません。しかし、本書のもっとも大きな魅力は、そのことばの簡明さと、多くの歴史的な事柄に支えられた多面的なものごとの捉え方にあるように思います。そして、その根底には著者の、聖書成立当時の人々のあり方を知ることが、聖書の理解には極めて重要だとの思いがあるように思います。それは、序章で述べられた以下のような著者のことばに象徴的に表れているように僕には受け止められました。


「聖書は、このような世界に生きた、無数の人間ののぞみの結晶なのである。問題は、こうしたのぞみが、いかなる仕方で聖書に結集したかにある。私は、こうした結晶化の過程を、聖書を生みだし、それを担った制作主体の同期の解明をとおして、明らかにしたいとおもう。それが、聖書の起源に接近する道だと考えるからである。」


本書に出会えた幸運、そして本書を復刊し、文庫化するに際し大きな牽引役となったと思われる西谷修先生には、多大なる感謝の念を感じざるを得ません。しかし、このように文章によって数千年にもわたる物語が読み継がれるということは、やはり人間の発明にも善きなるものがあること、そして文化の発展というものが確かに存在することを感じさせられます。そんなおおげさな感情を抱いてしまうほど、本書は深い思索を僕に与えてくれました。こんな短期間に二度読みしたのは、初めてのことではないかなあ。