市川晴子:虫と歌
- 作者: 市川春子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/11/20
- メディア: コミック
- 購入: 59人 クリック: 1,409回
- この商品を含むブログ (275件) を見る
昨日「テルマエ・ロマエ」の記録をつけていたら、「虫と歌」の記録をつけ忘れていたことに気がつきました。これこそ、昨年読んだ漫画の中でも(そんなに多くはありませんが)一読するだに忘れられないというか、衝撃的な驚きと感動を覚えた作品で、これほどまでのテンションの高まりを感じたのは、松本大洋氏の一連の作品群以来という、僕にとっては昨年とはいわず近年最高の収穫の一つでした。
すでに各所で絶賛されていた本書ですが、僕がまずこころをうたれたのは「星の恋人」における建築的描写の確かさです。基本的には一点透視という、極めて基本的な透視図の技術が多用されるその空間は、必要最小限ながら充分に建築空間を喚起させる要素が、柔らかなフリーハンドによって描かれ、まずこの空間的な感覚の鋭さに胸を打たれるものがありました。はじめはそんな空間的な表現の豊かさに驚いていたのですが、次第に著者の時間的感覚の豊かさ、とでもいうべき側面にも、気がつかされるようになります。
コレは「星の恋人」や「日下兄弟」でのはなしことばの表現に明らかなのだけれど、ひとつの会話文の中に少なくとも2つの時間軸を織り交ぜることによって、読み手は始めはなんとも言えない違和感を感じるのだけれど、それは結果として物語に重層性と多義性を与え、それは見事に豊かな物語空間を作り出しているように思います。まあ、そんな大げさにいわなくても、微妙にずれた会話が次々と交わされるこのリズムの良さは、目で追っているだけでも心地よいものがあります。
そして何よりも、作者の表現の豊かさと細かさ、そして時間と空間を切り取る鋭いまなざしと手腕が、本作品にはあふれています。そのもっとも象徴的な作品が「ヴァイオライト」だと思うのですが、一方で「日下兄弟」のラストに近いシーンも、まるで時間がとまってしまったかのような、なにかとても異常な、そして美しい、漫画というメディアの持つ表現力を明らかに一歩外へ踏み出した、とても素敵な物語空間があふれ出しているように思います。
でも、一番好きなのは巻末の「ひみつ」と題された書き下ろし短編でしょうか。この、たった2ページの中に、作者の素敵さのすべてが凝縮されているような気がして、なんどもなんども読み返してしまいました。