市川晴子:虫と歌

虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)

虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)

巨大な虫の模型制作を生業とする「兄」と、そのお手伝いをしつつもおそらく高校に通う「弟」「妹」たちの生活を描いた表題作に加え、叔父に預けられた少年と叔父の娘の不思議な生活を描いた「星の恋人」、飛行機事故から謎の少年の手引きによって難を逃れたような雰囲気の「ヴァイオライト」、肩を痛めた野球少年が自宅で見つけた成長するタンスのネジととっても親密になる「日下兄弟」の四編、そして巻末に書き下ろしの2ページの作品を収めた作品集。


昨日「テルマエ・ロマエ」の記録をつけていたら、「虫と歌」の記録をつけ忘れていたことに気がつきました。これこそ、昨年読んだ漫画の中でも(そんなに多くはありませんが)一読するだに忘れられないというか、衝撃的な驚きと感動を覚えた作品で、これほどまでのテンションの高まりを感じたのは、松本大洋氏の一連の作品群以来という、僕にとっては昨年とはいわず近年最高の収穫の一つでした。


すでに各所で絶賛されていた本書ですが、僕がまずこころをうたれたのは「星の恋人」における建築的描写の確かさです。基本的には一点透視という、極めて基本的な透視図の技術が多用されるその空間は、必要最小限ながら充分に建築空間を喚起させる要素が、柔らかなフリーハンドによって描かれ、まずこの空間的な感覚の鋭さに胸を打たれるものがありました。はじめはそんな空間的な表現の豊かさに驚いていたのですが、次第に著者の時間的感覚の豊かさ、とでもいうべき側面にも、気がつかされるようになります。


コレは「星の恋人」や「日下兄弟」でのはなしことばの表現に明らかなのだけれど、ひとつの会話文の中に少なくとも2つの時間軸を織り交ぜることによって、読み手は始めはなんとも言えない違和感を感じるのだけれど、それは結果として物語に重層性と多義性を与え、それは見事に豊かな物語空間を作り出しているように思います。まあ、そんな大げさにいわなくても、微妙にずれた会話が次々と交わされるこのリズムの良さは、目で追っているだけでも心地よいものがあります。


そして何よりも、作者の表現の豊かさと細かさ、そして時間と空間を切り取る鋭いまなざしと手腕が、本作品にはあふれています。そのもっとも象徴的な作品が「ヴァイオライト」だと思うのですが、一方で「日下兄弟」のラストに近いシーンも、まるで時間がとまってしまったかのような、なにかとても異常な、そして美しい、漫画というメディアの持つ表現力を明らかに一歩外へ踏み出した、とても素敵な物語空間があふれ出しているように思います。


でも、一番好きなのは巻末の「ひみつ」と題された書き下ろし短編でしょうか。この、たった2ページの中に、作者の素敵さのすべてが凝縮されているような気がして、なんどもなんども読み返してしまいました。