須賀敦子:コルシア書店の仲間たち

もともとパリに留学し、帰国後数年働くもまたローマへ留学することとなった著者は、ふとしたきっかけでミラノにあるカトリック左派と呼ばれる人々の集うコルシア・デイ・セルヴィ書店を知り、ついにはミラノに移住し、その書店を手伝い始める。本書は、その後死別することに至る夫ペッピーノを含めた、この書店で著者がであったさまざまな人々のそれまでとその後を描いたもの。


他の須賀さんの著書は、なにかある程度の主題を求めつつも自由自在に時と場所、そして時には現実と虚構を行き来するように思えるのですが、本書はめずらしく「コルシア書店」という、一つの求心的な主題を持つものといえます。それだけ、コルシア書店が須賀さんの生き方に与えた影響が大きかったのではと感じたのですが、それはここで語られているエピソードの主人公たちが、須賀さんの他の物語のいたるところに顔を出すことに如実に表れているように思います。


本書は、コルシア書店を中心とした、様々な人々の群像劇として読むことができます。例えば、書店の発起人とも言えるトゥロルド神父になぜか多大なる敬意を払い書店の経済的基盤を支えたツィア・テレーサ、夫が亡くなった直後に寝室を貸してくれたフェデリーチ夫人、エチオピアから無理矢理に近い形でつれてこられ、ろくな教育も受けずにサロンを転々として育ったのっぽのミケーレ、ドイツ人と突然の結婚をして、その後様々な家族との確執に悩まされることになったニコレッタ、70になる父親が面倒を見てくれている人とのあいだに子どもを作ってしまったため、コルシア書店の出版部門の仕事がまったく手に着かなくなるガッティなど、いったいひとりの人の人生のまわり、それもこれだけの凝縮された時間の中に、こんなにも劇的なる人々の生き様がある得るのかと、淡々とした文章なのに息を飲むくらい圧倒されてしまう、そんな思いにまず襲われました。


しかし一方で、本書をつらぬく柱のようなエピソードに、上述のトゥロルド神父、ダヴィデ・マリア・トゥロルドを描いた「銀の夜」があるように思います。この一篇の冒頭で、著者はおそらく上智大学の同僚の研究室の書棚に、イッセイ・ミヤケ風のゆるやかな衣服をまとった数人の男たちが、スケートをしている場面をきりとった写真の絵はがきを見つけます。面白いなと思って見つめる著者は、そこにマリオ・ジャコメッティという写真家の名前と、また著者がよく知った詩の一節を見つけるに至り、写真に切り取られた男の一人がダヴィデであることを知り、愕然とした思いにとらわれます。


「イタリアとも、詩とも、ましてや私や夫の過去なんかとはなんの関係もない、東京の同僚の研究室でこんな写真に出会って、私は狼狽した。どうして、こんなものが、こんなところに、ふいに現れたりしたのだろう。ダヴィデが一年まえから、重病の床にあって、再起をあやぶまれているのを知っていただけに、私にはこの不可思議な出会いがおそろしく思えた。」


この場面から、著者はダヴィデという、コルシア書店の中心的人物でありながら、その過激な言動で教会よりミラノを追われ、そして各地を転々としながらさまざまな活動を繰り広げた人物を、時には親しみを込めて、時にはある種の批判的なまなざしを持ちながら、そして時にはそうとしか生きられなかった生き方に哀切を込めて、細やかに語り始めます。カトリック大学に学んだダヴィデは、戦争末期にはミラノで地下活動を組織し、戦後は親友のカミッロとともにサン・カルロ教会の物置部屋のような場所を借り受け、コルシア・デイ・セルヴィ書店をはじめます。そこは単なる書店ではなく、人間のことばをはなす「場」として構想されたものでした。


「書店のパトロンのひとりであったフェデリーチ夫人から聞いたことがある。爆弾で瓦礫の山となったミラノの都心を、ダヴィデとカミッロがふたりそろってさっそうと歩いていたころは、みながふりかえって見たものよ。暗い時代をくぐりぬけて、やっと明るい火がともったようだった。」


しかし、その後ダヴィデとコルシア書店は、その思想的傾向のため幾度も危機的状況に陥り、ダヴィデはミラノから追放されることになります。また、このころからダヴィデはコルシア書店の中心と言うより、自分の活動の宿り木のような場所としてコルシア書店との関係を保ち、それがゆえに書店との精神的距離、また著者を含む書店の中心的な人々からの距離を、徐々に大きくしてゆきます。これは、ダヴィデの詩が高く評価され、書店に著書が並ぶようになるころには、もはや誰の目にも明らかなものと成ってゆきます。


ダヴィデは、その後自分の思想に関する執筆と出版、そして同じ志のものと集まる場所をミラノの北のベルガモの山の中につくり、そこに移り住んでしまいます。筆者はそこを「彼の王国」となかば揶揄するような表現で語りますが、そこがダヴィデにとってとても大切な場所であったということを、一方でとても優しい言葉で述べてゆきます。それは、この誰もが危ぶんだ共同体になにもいわずについて行ったピーノが、ミラノの病院でダヴィデの修道院に埋葬して欲しいと言い残して亡くなったのち、この修道院をおとずれた筆者が描く、ダヴィデの以下のような姿にもっとも鮮烈に現れているように感じました。


「春がきて、書店のガッティとダヴィデをたずねたとき、私たちはピーノが葬られている、急な坂の途中の墓地のよこを通った。ピーノがいるから、もうぼくはここを動かない、そうダヴィデは行った。道も樹木も凍ったあの葬儀の晩、ピーノの柩のあとに、山上の修道院からこの墓地までつづいた友人たちの手のなかの蝋燭の火の流れを、それぞれの心のなかでかみしめながら、私たちは、そんなダヴィデのことばを聴いていた。」