須賀敦子:本に読まれて

本に読まれて (中公文庫)

本に読まれて (中公文庫)

あの須賀敦子さんの手による書評集。美しいウィリアム・モリスの表紙につつまれた本書が出版されたのは1998年の8月。須賀さんが亡くなったのが同年の3月なので、本書は没後に出版されたことになります。始めて須賀さんの文章に出合ったのは、やはりある種の書評集と言える「塩十トンの読書」でした。そのことばのやわらかさと美しさに、これまでこの人の文章を読んでこなかったことは幸運だったのでは、これからいく冊もの須賀さんの著書に出合えるなんて、なんて幸せなんだと思わされたのを思い出します。


本書は、「書評から」と題された、基本的には一冊の本について簡単に書かれた書評集、続く「好きな本たち」という、これも一冊の本を巡る思いを綴った文章、そして「読書日記」と題された、3冊の本を一度に読み解く文章からなります。なんとなしに、「書評から」でのべられる言葉は、あいかわらずの美しさなのだけれども、どこか「書評」ということを意識している、なにか誉めなければならないと意識しているような、文章の硬さが感じられるように思います。それに比べ、「好きな本たち」と「読書日記」は、もう楽しくて楽しくてたまらないというような、著者の弾むような心のうちが感じられ、とても楽しめました。


須賀さんの文章は、「書評」と銘打ちながらも、やはり取り上げた本をきっかけとした、なにかまったく別の物語へと読者を誘ってゆきます。たとえば「偏奇館の高み」と題された一編では、基本的に永井荷風と墨東奇譚が取り上げられるのですが、著者はなにを思ったか思い立って偏奇館のあった場所に行ってみることにします。そのみちすがら、著者は石川淳がおそらく荷風について書いた文章を思い出します。石川淳が、灰燼と化した偏奇館のまえで呆然と立ちつくす様を描いた文章について、須賀さんは次のように述べます。


「すぐに弓とか、強き、とか気負ってみせる夷斎石川淳のつっぱりは、たとえ戯作ふうのやつしだからといわれても、私は好きになれないのだが、蔵書が灰になるのをまのあたりにして立ちつくす丘の上の老詩人を描ききって、どこかギリシア悲劇の主人公を彷彿させる作者の筆の冴えは、稀な感動をさそう。」


ぼくは荷風石川淳も大好きなのだけれど、このような石川淳の読み方もあるのかと、しみじみ感じさせられました。また、いつもながらこのことばの選び方、句点の打ち方、やわらかなひらがなの使い方は、どこに秘密が隠されているのか、読んでも読んでもわかることのない魔法のようなものを感じさせます。本書は、ほとんど知らない本についての文章だらけだったけど、それでも間違いなく楽しめます。また、本書のおかげでぼくは池澤夏樹という作家を「発見」することができました。それだけでも、本書はとても大切な一冊なのです。