森見登美彦:新釈 走れメロス 他四編

新釈 走れメロス 他四篇 (祥伝社文庫 も 10-1)

新釈 走れメロス 他四篇 (祥伝社文庫 も 10-1)

ぼくが森見氏を知ったのはこの本でした。それまでの著作には、なにかどろどろとした、手に取りがたい雰囲気を感じていたのだけれど、本書の表紙にあっさりと降伏し、手に取ったことをいまでもまざまざと思い出します。だって、「山月記」「藪の中」「走れメロス」「桜の森の満開の下で」「百物語」とならんだ上で、「走れメロス」の上には赤いブリーフですよ。赤いブリーフ!


それはともあれ、文庫版を再読してみて、またもやしびれるような感動を感じました。やっぱり、ぼくが森見氏に引かれるのは、その近代文学への偏愛だと思わされるからなのです。走れメロスが、なぜ「詭弁論部」の主要構成員が京都の街中を逃げながら捕まる話になるのか、そして結末は赤いブリーフの三人がひらひらと踊る話になるのか、まったく理解できません。でも、それでも近代文学への愛を感じるのです。


ぼくは太宰治はまったく理解できないのだけれど、後書きに書かれた作者の言葉はとても響くものがありました。曰く、「作者自身が書いていて楽しくてしょうがないといった印象の、次へ次へと飛びついていくような文章」。そんなこと、思っても見なかったけれど、少なくとも森見氏の文章にはそのような高揚感と行きすぎた勢いを感じざるをえません。こんな素敵な経験をできるなんて、思ってもみなかった。


また、取り上げられる作家がぐっときます、太宰治はまあ置いておいて、中島敦、芥川、坂口安吾森鴎外ですから。どれもこれも、一時期狂ったように読んでいた頃をまざまざと思い出します。そして、そこに描かれた文章が、ことごとく本歌をぶちこわすような破格さに溢れているところがまた爽快です。これこそが「トリビュート」といえるのではないかな。一読して、まったく元の話がわからない、その自意識過剰なオフビート感が、むしろ原典への深い愛情を感じさせてなりません。


以下僕の勝手な妄想なのですが、やはり自分がこのような企画を考えたとき、誰をトリビュートしたいか考えないわけにはいきません。中島敦は外せないけれども(でも「山月記」よりは「文字禍」の方が好きです)、ぼくだったら梶井基次郎(「のんきな患者」または「桜の木の下には」)、谷崎潤一郎(長編ですが「武州公秘話」とか)、石川順(「焼け跡のイエス」かなあ)、そして夏目漱石(いろいろありますが、短篇という意味では「夢十夜」のどれか)、そんなことを考えさせられてしまう本書は、ぼくはほんとうに大好きです。