藤崎慎吾:鯨の王

鯨の王 (文春文庫)

鯨の王 (文春文庫)

家族にあいそをつかされるほどのマッドな50代男性の海洋学者は、深海にて常識をはるかに超えた巨大鯨の骨格を発見する。喜び勇んで調査に取りかかろうとするが、調査主体の国の機関が首を縦に振ってくれない。そんなところにアメリカ企業から研究協力の申し出があり、イルカとサメの脳から作られたといわれる潜水艇で調査に乗り出すこととなる。同じ頃、アメリカ海軍の潜水艦が深海を潜航中に乗組員がつぎつぎと謎の死を遂げるという事件がおこり、アメリカ海軍も不穏な動きを見せる。しかも、海洋学者のオフィスの周辺には怪しげな男の姿が見え隠れし、事態はダイビング中におっことしたダイブコンピュータのように混迷の度を深めてゆく。


基本的には巨大鯨と人間との闘いに、人間同士での闘いをクロスオーバーさせた冒険小説という感じ。メリーランド大学海洋・河口部環境科学専攻で修士号を取得しただけあって、著者の描き出す海洋と深海、そして海洋生物の描写には、海好きの僕にはたまらなく心地よいものがありました。また、物語もいくつかの視点が乱れ飛びながらテンポ良く進み、本書のぶ厚さを感じさせない軽快な足運びで読み通すことができました。


そういう意味では文句なしに楽しめる作品なのですが、いくつかの点が気になってしまったことも確か。まず、登場人物たちの性格や振る舞いがあまりに平板で単調に感じます。伏線として張り巡らされたそれぞれのバックグラウンドが、結局ほとんど説明されず、物語にも影響を与えないことがその傾向に拍車をかけているように思います。また、悪者役として登場するテロリストの描写は、これはちょっと興醒めです。「イスラム原理主義者」を彷彿とさせる描写には、911以降の極めてゆがめられたイスラム教徒の姿を、無批判に受け入れているように思わさせられ、海洋の知識はともかく政治的な文脈ももう少し丁寧に扱った方がよいのではと感じさせられてしまいました。そのあたりが極めて残念な気がする一冊でした。