内藤正典:イスラムの怒り

イスラムの怒り (集英社新書)

イスラムの怒り (集英社新書)

フランス代表の引退試合ジダンがなぜ頭突きをしてしまったのか、そしてその後のコメントにはどのような意味があったのか、ということを足がかりに、イスラム世界におけるものの見方を分かりやすく解説し、なおかつその視点から見たイスラム社会の語られ方・見られ方を説明したもの。


最近南アジアやイスラエルなど、僕にとって文化的・宗教的「他者」に関する新書を読み漁っていますが、わかりやすさ・読みやすさで言えば本書が一番です。しかも、意外と身近なイスラムについて、ここまでその内側の立場から書かれた本を読んだのは、自分の勉強不足のせいかとも思いますが、正直初めてです。


ジダンが頭突きし、その後その内容を語らずしかもその行為自体の否定をしなかった理由を、著者はおそらくムスリムの「女性親族に対する侮辱に対する強い嫌悪感」によるものではないかと推測します。この論理を非ムスリム宗教圏が理解できないのと同じように、ムスリムの論理を非ムスリムは理解していないということ、この一点に著者の議論は尽くされているように思います。


ではその「ムスリムの論理」とはなにか。僕の理解する限りにおいては、それは神の教えに他ならず、代表的なものに聖典コーランがあります。この教えに対し自分の行為が妥当かどうか、つまり神の教えに対してどれだけ自分が誠実であるかどうかがムスリムの行動原理である、と著者は解説します(おそらく)。そしてそこでの「神の教え」をある程度理解しない限り、ムスリムの行動原理は理解できず、結果として「野蛮」であるとか、「暴力的」であるといった、極めて偏った解釈が生じてしまう。なぜなら、その神の教えの重要な要素には、「弱者に優しくあれ」「完璧に神の教えを実践できなくても、他の方法(例えば喜捨とか)などで免ずることができる」など、基本的には他者に優しく、また自分にもそれほど無理を強いないという、極めて柔軟な要素があるからです。


以上は著者の述べることであり、コーランをまったく読んでみたことのない僕にはあんまり実感がわかないのですが、もっともなるほどと思わされたのがフランスでの公立学校における女性のスカーフ着用問題でした。これは、フランスの公立学校でムスリマがスカーフを着用することを禁じたものですが、(大多数の)フランス的価値観からすると、これは政教分離にのっとったものであり、スカーフを着用して公立学校に通うことは、宗教的な女性への差別と捉えられたことによるものです。一方でムスリマの立場からすれば、髪の毛を公衆の面前に露出することが恥ずかしいことだ、という理解が根底にはあるとのことです。この一点において、この問題は宗教の人々に対する位置づけから、宗教と政治の関係へと変化することになります。この視点の転換と、そこから見えてくる新たな物事の理解の方法は、極めて新鮮なものがありました。


他にも、トルコは完全な世俗国家(宗教と政治が完全に分離している)ということや、フィンランドの風刺画に対してイスラム社会が激怒した理由、また和辻哲郎の「風土」におけるイスラムの記述の適当さなど、本書は痛快ともいえる記述に溢れています。わかりやすさを重視したためか多少語り口が乱暴に感じられるところもありますが、それでも本書は僕にとってイスラム社会の理解の大きな足がかりとなりました。というか、学生のころはムスリムの友だちもいたんだよなあ。もうちょっといろいろ聞いておけば良かった。