相沢沙呼:午前零時のサンドリヨン

午前零時のサンドリヨン

午前零時のサンドリヨン

主人公は高校一年生の男子。姉に連れて行かれた大宮のマジックレストランで、同級生の女の子がマジシャンとして働いているのを見て即発情、一目惚れとその現象をなずけ徐々に接近を図るも、彼女は不必要にぶっきらぼうで上手くいかない。そんななか、図書館で雑誌が不思議に陳列されていたり、音楽室で楽譜が無くなっていたりといくつかの出来事がおこり、マジシャンの彼女に解決を哀願するはなし。


歌舞伎町にとあるマジックバーがあって、どうみてもあやしいクラブ街の、その手のお店しか入っていないビルの確か5階にあるのですが、一度友人に連れられていって見たらこれが面白い。バーカウンターが10席くらいの小さなお店なのですが、店長ともう一人の店員さんが、お酒を造りながら目の前でマジックを演じてくれる。小さな舞台でのマジックショーもあるのだけれど、やっぱり醍醐味は目の前でのテーブルマジックなのです。どう考えても仕掛けのわからない、というか仕掛けなんかどうでも良いくらいの素敵な技の次々に、観ているぼくたちは最初は盛り上がっていたのだが、だんだんむしろ気味が悪くなると言うか、びっくりしすぎてどん引き状態になり、こんなお客さんで御免なさいとマジシャンに言ったら、最高のお客さんですよ、となぐさめられました。この前久しぶりに言ってみたら、2人の子供連れのお客さんがいてこれまたとても雰囲気が良い。いつもクールなマジシャンのお兄さんが、子供2人相手に四苦八苦しているのは、とても歌舞伎町のクラブ街とは思えないほほえましい風景でありました。


そんなことを思い出しながら本書を手に取ったのですが、やはり歌舞伎町のあの味わい深さを求めるのには無理があったかも知れません。文字量は多いのに、なんでこんなに読み飛ばしてしまうのだろう。せっかくの鮎川哲也賞受賞作を誉めないのも申し訳ないが、ちょっと残念な内容でした。どうしてかというと、巻末の笠井潔氏の選考評(彼だけが本作を押さなかったとのこと)に尽きていると思うのですが、内容の重さ、登場人物たちの置かれているであろう環境の過酷さを、舞台設定としてしか使っていないことに対する、ちょっと気味の悪さを感じてしまうからなのです。あと、マジックという面で言えば、本書でも幾度も言及されているとおり、マジックとは決して仕掛けを明かさない、つまり明かさなくて良いところにマジカルな良さがあると思うし、せっかくマジックを物語の中核に据えるのであれば、そのあたりを存分に利用すれば良いのに、なにか中途半端に感じられてしまいます。