アダム・ファウラー:数学的にありえない 上・下

数学的にありえない 上 (文春文庫)

数学的にありえない 上 (文春文庫)

数学的にありえない 下 (文春文庫)

数学的にありえない 下 (文春文庫)

てんかんの発作のため教壇に立てなくなり、博打にのめり込んで大きな借金を抱え込んでしまった統計学の学者は、ロシアマフィアの取り立てから死にものぐるいで逃げる際、不思議な現象が自分のまわりで発生していることに気がつく。その彼を、北朝鮮に追われる羽目になったCIAの凄腕女性工作員や、倫理的な面で足を踏み外してしまったマッドサイエンティストがなぜか追い回し、事態が混乱の度を増してゆくはなし。


文春文庫の翻訳物は、時として非常に切れ味鋭い、他の文庫にはあまり発見することのできない傑作を生み出してくれると思うのですが(例えば「隣のマフィア」とか)、これも間違いなくその種の一品で、上下巻あわせて1500円ほどの値段に躊躇していたのが大変悔やまれるくらい、久しぶりに時間を忘れて読み通しました。物語としては三部構成で、主人公が自分の不思議な状況に気がつく「偶発的事件の犠牲者たち」、その状況を受け入れながら主人公が逃げ回る「誤差を最小化せよ」、そしてなんとなくスパイ大作戦的な雰囲気を持つ「ラプラスの魔」という、なんだか意味ありげな表題が掲げられた各章は、その表題が醸し出す雰囲気とはまるで関係があるとは思えない展開を見せるものの、最後にはあああと思わせるものがあるという、まったくもって作者にしてやられた感に包まれるとても爽快なものでした。


しかし、読んでいるうちから不思議だったのですが、これはジャンルとしてはいったいなんなんだろう。ミステリーかと言えばミステリーとも言えなくもないが、この物語におけるおおきな仕掛けは、ミステリー的なる前提を力強く無効にしてしまうものなのです。と思いながら途中まで読んでいたのだけれど、その後の展開がこれまた技巧的で、先が読めたと思った読者の予想を見事にひっくり返す作者の力量に、むしろあなたがミステリーだよ、と言いたくなるものがありました。翻訳も極めて質が高く、語り言葉の流麗さに地の文の手堅いまとめかた、またリズム感ある文章の文節と素敵な語尾の使い方に、やっぱり面白い小説を翻訳していると、訳者も楽しいのだろうなあと感じたのです。