樋口尚史:ロマンポルノと実録やくざ映画

1970年代に、衰退をたどる日本映画業界の鬼っ子的な存在として作成された実験的な映画群のなかから、著者が自信を持って紹介する極めつけの異色映画紹介。

ここ数日、お手伝いをしている委員会からのお仕事で、1冊1200語程度の文量で20冊ほどの文献紹介の作業を仰せつかり、その締め切りが昨日。そちらをやらずにこんなところで文章を書いているわけにもゆかず、なんとかでっち上げたのが一昨日の晩。こちらでも読書記録を再開できる状況とあいなりました。

さて、本書は発売当初から気にはなっていたのだけれど、ようやく読むことができました。扇情的なタイトルはいささかミスリーディングなところがあり、むしろ生き残りに必死であった70年代の日本映画界が濫造した作品たちの中から、そのような状況でしか成立し得なかったいくつか(と言っても膨大ですが)の作品を愛情に満ちあふれた視点から語ったもので、けっしてロマンポルノ映画と実録やくざ映画について語ったものではなく、むしろ幅広い分野の作品が収録・紹介されています。

本書の得も言われぬ魅力は、著者のそれぞれの映画たちに対する深い愛情が、著者独特の饒舌かつ繊細な語り口の中にあますところなく示されていることでしょう。例えば、本書の冒頭とも言うべき紹介5本目の「仁義の墓場」の解説はこんな感じ。
「そんな途方もない活力みなぎるこの作品が描きあげるのは、生気のかけらもなく堕落を続け、我儘な凶暴さで不幸を撒き散らし、ただ身勝手に自滅していった稀代のアンチヒーローであり、日本映画史にあって空前絶後の死神のような男である。こんなスターが真っ先に忌避しそうな企画をあえて選び、のめりこむように演じきった渡哲也の捨て身で賭ける凄みも、それを受けて立って異端の人物像を掘り下げまくる深作の容赦無さも、そしてここまで暗澹たる壮絶な作品で堂々商売に打って出た東映の気風も、今となっては奇跡的とさえ言える。」
こうやって抜き出して書いていると、本書の無駄をそぎ落とし句読点まで最低限の使用にこだわった著者の文章が、いやまさに話題に挙げられている映画の緊張感を伝えるような気もしてきて楽しめます。

映画評が進むにつれ、著者の語り口はますますペダンティックに変化してゆき、映画の粗筋などどうでもよく、その映画がどのような立ち位置であったのか、そしてそこでどのような試みが行われたのかという方向にシフトしてゆきます。このあたりも読んでいてとても痛快。例えば、「狂い咲くジャンルの妙味」と題された第2章で取り上げられる「血を吸う薔薇」に至っては、延々日本の怪奇映画の変遷が語られた後、最後の段落のはじめの一行で肝心の映画の粗筋が語らるのですが、それがまたいいかげんでとてもよい。
「物語は田舎の洋館や学園に吸血鬼が潜んでいるという他愛もないものだが、後に大林宣彦作品を支える美術監督・薩谷和夫のなかなか本格的なゴシック趣味のセットに、第一作の小林夕岐子扮する美女の吸血鬼、二・三作目の岸田森が熱演する和風ドラキュラの熱演が加わり、恐怖ものの少女マンガのようなタッチが洒落ていた。」
このように、物語はさっぱりわからないけれど、なにか見てみたくなる解説は、作者の映画に対する深い愛情を感じさせるものがあり、とても共感できるのです。

あと素晴らしかったのは、本書で挙げられる映画の不思議な映画のタイトルたちです。あまりさしさわりがないものをちょっと書き出すだけでも、「直撃地獄拳 大逆転」「子連れ狼 地獄へ行くぞ!大五郎」「トルコ110番 悶絶くらげ」「急げ!若者」「散歩する霊柩車」「吸血鬼ゴケミドロ」など、魅力的なものばかりでうっとりしてしまう。あといちばん強烈だったのは「キッチュへの敬虔なる殉教」と題された節で語られる「怪猫トルコ風呂」で、この解説も素晴らしい。
「これは七十五年一月に東映で原田隆司監督「下苅半次郎 秘(引用者注:原文では○に秘の文字)観音を探せ」というこれまた奇天烈なポルノ時代劇と併映で公開された(この頃の東映のキワモノ趣向満載の見世物興行センスはまさに当時ならではのえぐさであった)。「怪猫トルコ風呂」とは、まさかという感じではあるがその題名通り、「トルコ風呂」をめぐる色と欲の人間模様に古式ゆかしい化け猫物の復讐譚をドッキングさせた(なぜ?)異色の娯楽篇である。」
こんな文章、映画見なくて読んでいるだけでも幸せです。望むらくは、ぼくもこのような文章を書けるようになりたいものです。