森谷明子:矢上教授の午後

矢上教授の午後

矢上教授の午後

東京都の西部、おそらく多摩地区にある大学の生物総合学部に属する古ぼけた研究棟には、一度定年を迎えたであろう日本古典文学を教える非常勤講師矢上「教授」が、その豊かなミステリの蔵書を蓄えた研究室を持っていた。その研究棟で、突然の雷雨による停電が発生、折悪しくも非常扉が開かない事態も重なり、10名ほどの学生と教員が閉じこめられることになる。ある種の混乱と秩序の発生するなか、一人の男性の死体が発見される。

森谷明子氏と言えば、最近創元推理文庫にもなった「千年の黙」の印象が鮮烈でした。そのゆったりと落ち着いた語り口の中に、時の流れの中に現れ消えゆく人々の姿を見事に描き取る氏の文章は、ほんとうに久しぶりに良いものを読んだとしみじみと感じせられました。その次の作品「れんげ野原のまんなかで」は、図書館を舞台とした「日常の謎」的ミステリーというもので、一変した雰囲気の中にもやはり確かな物語の手応えを感じさせ、とても楽しかったのを憶えています。

本作では、これまた舞台が入れ替わり、郊外に立地する大学の、なかでももっとも老朽化した建物が舞台となります。登場人物は、修士論文の登録の締め切りに追われる三人の院生やその世話をする助手、マスコミ受けの良い教授や調査先の事故を気に病む教授、そして恐妻家の教授と根暗な助手など、きわめてエキセントリックにみえるものの、以外と大学のリアルな世界を描き出していて、もちろん自分の大学時代を思い出しながら書いたのでしょうが、相変わらずの世界の作り込み方にやはり嬉しくなります。

そして、表紙やタイトル、帯などから読み取れる「コージーミステリ」なる、ほのぼのとしたミステリを謳う作品に共通する特徴、つまり極めて生臭く、露悪的な世界を持ち合わせているところも素敵であります。若竹七海氏の作品にも近いものを感じさせますが、このような間の抜けた描写、のんびりとした台詞、茫洋とした舞台こそ、悪意や敵意を描き出す格好のキャンバスなんだなあと、本作を読んで思わされました。でも、面白かった。特に、上下関係にまつわる言葉遣いなど、きわめて細かく描写されているところが気持ちよいのです。