スーザン・ソンタグ:良心の領界

良心の領界

良心の領界

浅田彰氏、磯崎新氏、姜尚中氏、本書の訳者でもある木幡和枝氏、田中康夫氏が、作家のスーザン・ソンタグ氏を囲んで行ったシンポジウム「この時代に想う ー共感と相克」の記録を中心に、戦争や抵抗、翻訳、文学、美などについての講演やエッセイなどを集めたもの。

名前は聞いたことがあったものの、哲学者と思っていたくらいに知識が無かったソンタグ氏ですが、僕たちが金曜日に開いている映画上映会に遊びにきてくれる学生(しかも他学科!)に本書を薦められ、貸してもらって読みました。これが、とても面白い。

本書の醍醐味は、やはり一番はじめ収録された、頁数でもほぼ本書の半分を占めるシンポジウムでのやりとりにあります。ソンタグ氏は、以下のように話しはじめます。
「公共の場で自分の意見を言ったり討論に参加したりする特権が、世界に関心を抱く作家にはあるようですが、今日の私の発言としてはまず、警告から始めたいと思います。意見をもつのはきわめて容易ですが、わけても大切なことは、その意見の基礎に、具体的な知識と情報、そして直接の体験があるかどうかです。自分が訪問したこともなく、ある程度の現実味のある時間を過ごしたこともない国について語るのは、私としては避けたいと考えます。」
これは単純に考えれば、「経験していないことは語ってはいけない」という、かなり脳天気な主張に聞こえなくもありません。しかし、氏の意図するところは、すべての主張の主語は「私」であることを忘れてはならない、そしてその「私」というものは、さまざまな経験の中で揺れ続ける存在でなければならない、ということにあるように思います。それは、そのすぐ後にかたられるこのようなことばに現れています。
「私は、物語というものの存在、ナラティブとよばれる物語の叙述、ものごとの記述の有効性を信じています。とはいえ、自分のものでも他者のものでも、意見というものは苦手です。ですから今日も、私が何を言おうと、何らかの疑念を抱きつつ語っていると思って聞いてください。自信をもって何かを言っているのではない、と。」

また、このシンポジウムのクライマックスは、といっても始まってすぐなのだけれども、姜尚中氏とのやりとりにあります。ある限定的な意味での紛争への軍事的介入を認めるソンタグ氏に対し、姜氏は朝鮮戦争を例にひきながら、やはり軍事的介入はするべきではないのではと問います。それに対し、ソンタグ氏は以下のように答える。
「そこで私も、もう一度、古典的で、けっして私の頭を離れない対照的な例を挙げましょう。今日は一度も話に出なかったルワンダです。短時間のうちにことが運ばれたという意味でも、20世紀の歴史上で最悪の大量虐殺というべきもの。約六週間のうちに八十万から百万人のツチ族ルワンダ人が殺された出来事です。(中略)この出来事のことを考えると、ふつう軍事介入をすると、市民を守るどころか多くの死者を、不要な死者を出すことになる、という一般論がありますが、私はこの見方にかならずしも賛成できないのです。このような問題は、ケース・バイ・ケースでしか私には考えられません。」

姜氏のことばもソンタグ氏のことばも、どちらも胸に迫る、切実な思いが込められています。ここでは論争が行われているのではなく、さまざまな思いの中で揺れ動く自分と他者のありようの難しさが、このような二つの研ぎ澄まされた知性によってきわめて鮮やかに、描き出されているように思います。この二人のことばに比べ、他のスピーカーのことばには、なにか上滑りするものを感じました。その意味でも、このシンポジウムの記録は素晴らしい。

他の論考もとても面白かったのですが、とりわけ印象深かったのが「インドさながらの世界 ー文学の翻訳について」と題されたスピーチです。これは翻訳の役割について、16の公用語があるとされるインドでの状況などを示しながら語ったものですが、この文章自体が「翻訳」されたものだというところがたまらない。この文章を訳している木幡氏の、なんとも言えないであろう気持ちが想像され、読んでいてどきどきしてしまいました。

その木幡氏の訳文も素晴らしい。このように、いくつか訳文を書き写すだけでも、とても勉強させられます。例えば「わけても」ということばの使い方とか、「ふつう」がひらがなであったりとか、細かいところもとても素敵なのですが、文章全体に対する気の使い方は、それは見事なものでした。