〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)

〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)

いきなり「ネオリベ」批判から始まるところが少しミスリーディングな気もしますが、基本的にはさまざまな思想的探求が「形而上学化」することの危うさを説いたもの。といっても、「形而上学」って抽象的な思考形式というくらいの認識のぼくには、はじめのうちなにが問題なのかさっぱりわかりませんでした。筆者は、「形而上学」を以下のように説明します。
「西欧の哲学史で、自然とか宇宙全体の本性といったような、人間の知覚によって直接的に認識することがそもそも不可能であるようなものをめぐる議論のことを「形而上学metaphysics」という。(中略)こういう言い方をすると、抽象的で難しい話のようだが、要は「目に見えないもの」、したがって「本当のところどうなっているのか確かめようのないもの」についてあれこれと思案をめぐらすということである。「神の存在は証明可能か?」とか「人間に自由意志はあるのか?」といった類の問いがその典型である。」
著者は、ハイデガーデリダは、伝統的な形而上学を「脱構築deconstruction」しようと試みたと説く。彼らが「脱構築」使用としてきた西欧的な形而上学とはなにか。著者は多くの但し書きをつけながら、以下のように述べる。
「ここではとりあえず、プラトン的な形而上学の一つの側面として、「精神/物質」の二項対立図式があることだけ指摘しておきたい。「二項対立dichotomy」というのは、「精神/物質」「善/悪」「内容/形式「男性的なもの/女性的なもの」「右/左」・・・・・・のように、物事を二つの極に分解し、その極のどちらに近いかによって個別の物事を位置付け、理解しようとする思考パターンのことである。」
では、このような問いの何が問題なのか。それは、ぼくの理解したところによれば、「形而上学」を批判する人々は、哲学や思想は一つ一つ、確かめられ得るものを積み上げた思考でないといけないと考えている。それは、そうでないと説明も反論もできない、まさに<宗教的>な主張になってしまうからである。

ここで面白いのは、筆者が本書で展開する様々な「形而上学」を乗り越えようとする試みは、そのすべてが「形而上学化」してしまう可能性を秘めている、と逆説的に説明されてしまうことなのです。どのような「問い」も、どこかに「目で見てわかる」ものではない「問い」を、本質的にはらんでいる、と著者は説いているように思える。ではどうすればよいのか。著者は以下のように述べる。
「そういうわけで私は、形而上学的な諸幻想からの“最終解脱”のようなことは目指すべきではないと考えることにしている。取りあえず、これまで自分が無自覚的に前提していたことの無根拠性を自覚し、その前提を取り払った場合、「この私」にとって「世界」がどう見えるか「想像」してみる、という程度のことで満足しておくべきだろうーその際の「想像」にも、私の既成観念の仲に“自然“と定着している形而上学的な要素がかなり入り込んでいることを忘れるべきではない。」

このあたりまでくると、前回読んだ「集中講義!日本の現代思想」で、マルクス主義の思想が二項対立図式を批判したという意味が、ようやくわかった気がして、とても楽しめました。また本書の素敵なところは、著者自身が統一協会の信者であったという経験を、振り返りながら議論が進められていることです。「思想」のはなしになると、どうも人ごと感というか、切り込んでいるはずなのになにか俯瞰的な記述が多くて白けてしまうことが多いのですが、本書はある意味「思考」の当事者性が感じられる。だからこそ、一つ一つの議論に説得力を感じるのです。

〈宗教化〉する現代思想 (光文社新書)

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