須賀敦子:塩一トンの読書

あれはいつのことだったか、確か打ち合わせを終えて先生方とお話しをしているとき、だれも建築の話をせずに映画や音楽の話で盛り上がった。その時、ぼくの上司である先生にお勧めいただいたのが須賀敦子氏で、聞いたこともなかったので目を丸くしていたら、講師の建築家の方も読んだ方が良いよと。翻訳家なのだけれどエッセイも書いているらしい。さっそく書店で探してみると、いろいろ並んでいる。とりあえず一番読みやすそうなものをと思い、本書を手に取った。

本書は、本にまつわるいくつかの思い出話と、須賀氏による短い本の紹介、というよりは、ある小説の良さを粗筋つきで語ったいくつかの文章からなる。大学卒業後、パリ、ローマに留学し、その後ミラノでイタリア人と結婚、そして早くに夫を亡くしてしまったという人生の遍歴を、静かに、そして色鮮やかに描き出す須賀氏の文章は、ぼくがこれまで経験したことのない、不思議な世界を感じさせるものでした。

表題の「塩一トン」とは、イタリア人である義理の母の口癖である。著者は、新婚当初その義理の母に、「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」といわれる。
「一トンの塩をいっしょに舐めるっていうのはね、うれしいことや、かなしいことを、いろいろといっしょに経験するという意味なのよ。塩なんてたくさん使うものではないから、一トンというのはたいへんな量でしょう。それを舐めつくすには、長い長い時間がかかる。まあいってみれば、気の遠くなるほど長いことつきあっても、人間はなかなか理解しつくせないものだって、そんなことをいうのではないかしら。」
著者はこのことばを新婚当初の浮ついた気分をいさめることばとはじめはとらえつつも、その後これはいわゆる「古典」とのつきあいかたにもいえるのではないかと思い、つぎつぎと連想のつばさをひろげてゆく。

この短いエッセイを冒頭に収録した本書には、このような、やわらかく、まさにみずみずしいことばで様々な本や作家、そして翻訳者たちが表現されてゆく。きっとここで収録された本たちよりも、須賀氏のことばを読んでいるほうがずっと楽しいのではないか、そんなことを感じながら、ゆっくりと読み終えました。

先日久しぶりに会って話をした母に、須賀敦子という人はほんとうに良い文章を書くねえといったら、いままで知らなかったのかとあきれられた。母曰く、須賀氏はほんとうに早く逝ってしまったとのこと。彼女に影響されて、モンテ・フェルモまで行ってきたのよ、とまで母はいう。そういえば実家に「ユルスナールの靴」という本があったなあ。あれも須賀氏の著書だった。
しかし、ほんとうに文章が美しい。漢字とひらがなのえらびかた、息のつぎかた、ことばの重ねかたとつなげかた、目から入ったことばが音となり響くような、それでいてこの静けさはなんなのだろう。これからゆっくり、もはや増えることのない著書を、読んでゆこうと思います。

塩一トンの読書

塩一トンの読書