伊藤計劃:ハーモニー

21世紀後半、世界で殺戮が横行した<大災禍>を経験した人類は、人々がお互いに「幸せ」であることを、法律・技術的に義務づける究極の「友愛社会」を形成する。そのなかで、自分を消滅させることを目標に集まった3人の少女は、あるものは成功し、あるものは失敗して生き続ける。その10数年後、世界中で理由のない大量自殺が発生し、成長した生き残りの少女だった女性は、自分たちがこの自体に深く関わっているのではないかと考え、調査を開始する。

前作「虐殺器官」は、とても素晴らしい作品だと思ったのだけれど、自分の以前の記録を見ると、批評性は特に意識せず、優れたエンターテイメントとしての質を感じていたみたいです。では本作はどうだろうか。

本作は、人間が「健康」であり、社会的に「豊か」であることを、外的に義務づけられた世界が舞台となる。ここでは、タバコもコーヒーも、反社会的な行動として否定され、非難されることとなる。一方で、その現状に生理的な不信感を憶えたものたちは、虚しい抵抗を行いながらあるものは周囲に流され、あるものは反発しながら抵抗を試み、あるものは自分を消し去ることに成功する。

伊藤計劃氏は、本作ではあからさまに語ることはないが、間違いなく「自由」のありかたについて、批判的なまなざしで語りかけているように思える。そこに大きな説得力を感じてしまうのは、これが僕たちが直面している現実をカリカチュアライズしたものであるからにほかならない。例えば厚労省が提唱している「健康日本21」では、タバコやアルコールはもとより、「食卓を中心とした家族の団らんの喪失」までもがやり玉に挙げられ、「人々の健康で良好な食生活の実現のためには、個人の行動変容とともに、それを支援する環境づくりを含めた総合的な取り組みが求められている」とされる。また、最近の「メタボ健診」は、その非科学性が指摘されているのにもかかわらず、実際に実施されている。

作中で、本作のもっとも重要な登場人物であるミァハは、つぎのようなことばを語る。
「未来は一言で「退屈」だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」
ここには、逆説的ではあるが、この世界のありようは本当に正しいのだろうか、ぼくたちはどこまでを射程におきながら「生きる」ということを考えることができるのだろうかという、なにか小説的とは言えない、筆者の声が響いているように思えるのだ。

ぼくたちの「生」とは、いったいどのようなものなのだろうか。規範的「生」と、生きられた「生」には、どのような違いがあるのだろうか。そして忘れてならないのが、「生」のあり方の選択の幅が、生得的に極めて制限されている人々の存在である(これは例えばいわゆる障害者と呼ばれている人々を想像してもらうのが簡単だが、実はそれは男であったり、女であったり、日本の中での非日本国籍の人々であったり、さまざまな可能性がある)。そのような「生」のありかたについて、著者の問いと結末において提案される答えは、間違いのない当事者性を持って投げかけられたように思え、なんとも表現のしようのない思考が頭から離れなかった。


伊藤計劃氏は3月22日にがんによりご逝去なされたとのこと。心よりお悔やみ申し上げます。

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)