荒木経惟:天才アラーキー 写真ノ方法

あの破格の写真家荒木氏が、写真と自分に対する愛をとりとめもなく、勢いよく語ったもの。おそらく酔っぱらいながらのインタビューを、対談形式ではなくモノローグの形でまとめている。

なんつーか、めちゃくちゃかっこよいですよ。ことばが。とにかく勢いがいいんだ。どこのページ開いても良いよ。例えば第6章「アラーキーの整理術」ではこんな感じ。

「だから、あたしは他力本願って言うのよ。他力本願っていうのは、他人と組んでやるっていうことですよ。ひとりでやるとダメだね、そんなの面白くないよ。個人としての主張がないとかなんとか言うヤツがいるけど、何言ってんの、もともと個人には何もないんだって。ひとりぼっちには思想も何もありません、ひとりには。」

第7章「ポートレート論」ではこう。

「荒涼たるところをポーンて見て、不況で苦しむお母さんのポートレートなんてのがあるでしょ。写真には何か陰性がないとダメって感じがあるわけ。でも、そうじゃないの。ポートレートは、その人なりのコトを撮るんだ。案外ねえ、あたしのポートレートはピュアなんですよ。そうだけど、なんの役にも立たない。その、写ってる人だけのコト、写ってる人だけの何かのコトなんだ。」

さらに、第11章「韓国を撮る」では、こうだ。

「考えてみるとね、写真というコトの中にはウソとマコト、虚実が混ざって入ってるんだね。それで、あたしはともかくシャッターを無心におしているだけなんだよな。私に主体性はないのよ。主体性は被写体にあるってこと。さっき、物語は写される側にあるって言ったけど、それと同じことだな。何が主観か、何が客観かということを見きわめたいとも思わないんですよ。もしかしたら、あたしに客観性というものがないかもしれないんだからさ。」

もう、写真の撮り方なんかどうでも良いです。この、章立てとまったく関係のない文章の奔流の中に、とぎすまされたことばと思考の強さがたちあらわれる、これだけで一つの小説だよ。ぶっきらぼうのようでいて、叙情性にあふれているんだよね。いいなあ、デジタル一眼買うのはやめ、どこかにしまった古いフィルムカメラで、写真を撮りに街へ出たくなってきました。

天才アラーキー 写真ノ方法 (集英社新書)

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